漫画『土崎空襲のはなし はなますはみた』
タニウツギ
2~3日通勤路を通っていなくて久しぶりに車を走らせると、アレッと気づくほど道端の景色が変わっている。例えば雄物川の水がかなり減っていること。例えば道の両側に咲く花が変化しているとか。今日はタニウツギが満開になりつつあることに気づいた。
以前も書いたことがあるが、桜の花と見間違ってしまうのである。
家人が言う。
「遅い季節の桜が咲いだなぁ」
「ンだなぁ」
この花は桜ですかと問う人に「そうかもね」と言うタニウツギなり
アベシンゾーの嘘よりもいいでしょう。
土崎空襲の話
先日、組合の大会に出かけての昼休み。何冊かの本が売れられていた。その中に『はまなすのはな』という漫画があった。1945年8月14日に秋田市土崎を襲った米軍の空襲の話である。
漫画は土崎空襲に遭った何人かの体験を聞き書きしたことを漫画にした内容である。記録として次のようなことが書かれている。
『1945年8月14日 22時30分~ 15日3時30分ころまで
100キロ爆弾 7360発 50キロ爆弾 4687発
死者 250人以上 負傷者 200人以上 』
土崎には日石製油所があったのでねらわれたとのこと。
これだけ多量の爆弾が落とされて死者負傷者がこれだけだったのは幸いかもしれない。しかし、8月15日には敗戦の日になった。ムダな被害だったとしか言いようがない。
たまたま、次の日に秋田市の短歌大会からの帰り道。短歌の仲間のおばあちゃんを車に乗せて帰ってきた。昭和5年生まれとのこと。
昭和20年ころ(1945年)には女学校に在籍していたそうだ。ところが、その頃は勤労動員で勉強なんかろくにしなかったという。そして、ある日六郷町に飛行場を作ると言うことで勤労動員をかけられて出かけていた。そこには小学生もたくさん集まっていたとのこと。おばあちゃんの話では
「小学生まで集めるようでは・・・・」
と、語る。
皆で働いていると奥羽山脈の方からグラマンが三機突然現れて作業している場所に向かってきたそうだ。大変だぁ。逃げろーー。と、なったが逃げ場所がない。木の陰に行きたいがダメ。作業現場は大混乱だったがグラマンは攻撃しないで飛び去った。
あんなにオッカネガッタことはねがった。と、話してくれた。
そうそう、もう一つ話してくれた。年齢が20歳前の兄さんがいた。兄さんは少年特攻隊に入ると言って親を必死になって説得したとのこと。それは国に尽くすという気持ちもあっただろうが、周囲の若者たちの多くが志願していったことにもあったべなぁ。ンダドモその志願した人たちは皆死んでしまったなぁと話してくれた。
そのことを知っている母親は絶対にダメだ。もしも特攻隊に行けば兄は必ず死ぬ。だから兄さんが申込書を持ってきても絶対に判子をつかなかったという。そのうちに終戦になったと。
私は月並みな感想だが母親の勇気と愛だなぁと思った。そんな話がもしも周りに伝わったら間違いなく治安維持法でしょっ引かれただろうとも思った。
終戦間際になっても政府は国民に戦況を伝えることもなく大本営発表では勝っていると嘘ばかりついた。その結果、軍人で230万人、民間人で80万人を超える日本人が亡くなった。
今日、衆院では共謀罪が通過した。秘密保護法、戦争法そして治安維持法の再来と言われる共謀罪。ひたひたと戦争の足音が聞こえてくるような気がしてならない。
『はまなすはみた』には当時の人たちの見た空襲の怖さ。当時の人たちの勇気そして感じ方などが読み取れる。前編カラーの漫画の中に戦争の悲惨さをおどろおどろしい内容ではなく書き込まれている。
土崎空襲の夜。燃え上がった真っ赤な空は直線距離にして50キロ近くも離れた神宮寺や南外からも見えたという。
少し話は変わるが1958年(昭和33年)2月11日の夜に秋田県でもオーロラが見えた。断定的に書いたがその頃小学五年生だった私は見ることができなかった。オーロラ観測の記録から拾ったのです。ハイ。
同級生は午後8時過ぎに外に出たときに北の空が赤くなっているのを見たと言う。その頃は何とも思わなかったが、その後その赤い空の現象はオーロラだと知ってとてもうらやましかった。今でも残念だったなぁと思っている。それはともかくとして同級生は
「家の人が、土崎の空襲みたいだなぁと言ってたよ」
それだけ土崎空襲の記憶は人々の心にしみ込んでいたと言えよう。
歴史の経験を活かそうとしないアベシンゾー政権。ダメですね。漫画からアベシンゾーにたどりついてしまった。
これにて本日のブログは終了です。
2~3日通勤路を通っていなくて久しぶりに車を走らせると、アレッと気づくほど道端の景色が変わっている。例えば雄物川の水がかなり減っていること。例えば道の両側に咲く花が変化しているとか。今日はタニウツギが満開になりつつあることに気づいた。
以前も書いたことがあるが、桜の花と見間違ってしまうのである。
家人が言う。
「遅い季節の桜が咲いだなぁ」
「ンだなぁ」
この花は桜ですかと問う人に「そうかもね」と言うタニウツギなり
アベシンゾーの嘘よりもいいでしょう。
土崎空襲の話
先日、組合の大会に出かけての昼休み。何冊かの本が売れられていた。その中に『はまなすのはな』という漫画があった。1945年8月14日に秋田市土崎を襲った米軍の空襲の話である。
漫画は土崎空襲に遭った何人かの体験を聞き書きしたことを漫画にした内容である。記録として次のようなことが書かれている。
『1945年8月14日 22時30分~ 15日3時30分ころまで
100キロ爆弾 7360発 50キロ爆弾 4687発
死者 250人以上 負傷者 200人以上 』
土崎には日石製油所があったのでねらわれたとのこと。
これだけ多量の爆弾が落とされて死者負傷者がこれだけだったのは幸いかもしれない。しかし、8月15日には敗戦の日になった。ムダな被害だったとしか言いようがない。
たまたま、次の日に秋田市の短歌大会からの帰り道。短歌の仲間のおばあちゃんを車に乗せて帰ってきた。昭和5年生まれとのこと。
昭和20年ころ(1945年)には女学校に在籍していたそうだ。ところが、その頃は勤労動員で勉強なんかろくにしなかったという。そして、ある日六郷町に飛行場を作ると言うことで勤労動員をかけられて出かけていた。そこには小学生もたくさん集まっていたとのこと。おばあちゃんの話では
「小学生まで集めるようでは・・・・」
と、語る。
皆で働いていると奥羽山脈の方からグラマンが三機突然現れて作業している場所に向かってきたそうだ。大変だぁ。逃げろーー。と、なったが逃げ場所がない。木の陰に行きたいがダメ。作業現場は大混乱だったがグラマンは攻撃しないで飛び去った。
あんなにオッカネガッタことはねがった。と、話してくれた。
そうそう、もう一つ話してくれた。年齢が20歳前の兄さんがいた。兄さんは少年特攻隊に入ると言って親を必死になって説得したとのこと。それは国に尽くすという気持ちもあっただろうが、周囲の若者たちの多くが志願していったことにもあったべなぁ。ンダドモその志願した人たちは皆死んでしまったなぁと話してくれた。
そのことを知っている母親は絶対にダメだ。もしも特攻隊に行けば兄は必ず死ぬ。だから兄さんが申込書を持ってきても絶対に判子をつかなかったという。そのうちに終戦になったと。
私は月並みな感想だが母親の勇気と愛だなぁと思った。そんな話がもしも周りに伝わったら間違いなく治安維持法でしょっ引かれただろうとも思った。
終戦間際になっても政府は国民に戦況を伝えることもなく大本営発表では勝っていると嘘ばかりついた。その結果、軍人で230万人、民間人で80万人を超える日本人が亡くなった。
今日、衆院では共謀罪が通過した。秘密保護法、戦争法そして治安維持法の再来と言われる共謀罪。ひたひたと戦争の足音が聞こえてくるような気がしてならない。
『はまなすはみた』には当時の人たちの見た空襲の怖さ。当時の人たちの勇気そして感じ方などが読み取れる。前編カラーの漫画の中に戦争の悲惨さをおどろおどろしい内容ではなく書き込まれている。
土崎空襲の夜。燃え上がった真っ赤な空は直線距離にして50キロ近くも離れた神宮寺や南外からも見えたという。
少し話は変わるが1958年(昭和33年)2月11日の夜に秋田県でもオーロラが見えた。断定的に書いたがその頃小学五年生だった私は見ることができなかった。オーロラ観測の記録から拾ったのです。ハイ。
同級生は午後8時過ぎに外に出たときに北の空が赤くなっているのを見たと言う。その頃は何とも思わなかったが、その後その赤い空の現象はオーロラだと知ってとてもうらやましかった。今でも残念だったなぁと思っている。それはともかくとして同級生は
「家の人が、土崎の空襲みたいだなぁと言ってたよ」
それだけ土崎空襲の記憶は人々の心にしみ込んでいたと言えよう。
歴史の経験を活かそうとしないアベシンゾー政権。ダメですね。漫画からアベシンゾーにたどりついてしまった。
これにて本日のブログは終了です。