500回、すごい歴史だ
今日も好天。気温も15~16℃くらいに上昇。
今日から年度替わり。
いつも感じているのだが大晦日から正月になるよりも3月31日から4月1日に年度が替わるときの方が劇的である。
そんな日の朝。友人のTN氏から川柳のラインが入った。
ご破算で願いましては新たなり
まったく、その通りで今日からボクはご破算となる。「新たなり」です。
午後からふらりと散歩に出た。前に住んでいた家の方面をグルッと回ることに。するとキクザキイチゲが咲いている。
少し歩くとダイスケクン家の前にウメの花が満開。
サクラの花は「今年の咲くのは早いかも」とちょっとほころびていた。
もうすぐ春満開になる。
『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』
先月(だったかな)オッカアの病院に付き添って盛岡に行った。やることもないので駅中のさわや書店で暇つぶし。
その時に見つけたのが『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』の文庫本。即、ゲット。
家に帰ってから良く見たら「上巻」。すぐにアマゾンで「下巻」をポチって二冊揃ってから読み始めた。
不世出の柔道の天才とも言われる木村政彦を通して日本柔道、プロレス、格闘技などの流れを語り尽くした大作である。
木村政彦。知らない人が多いかもしれないが戦前戦後を通して柔道界のナンバーワンだった。それも今のようなスポーツ柔道ではなくほぼ何でもありの実戦柔道での日本一。
戦後の混乱期に柔道はGHQに弾圧され木村政彦はアメリカやブラジルなどに渡り柔道やプロレスなどの格闘技で技を磨いていた。
その後、日本でプロレスが始まったときに木村政彦は力道山とともにプロレスを盛り上げようとしていた。
昭和29年。両雄並び立たずのようになり木村政彦と力道山のガチンコ対決になった。結果は木村政彦が力道山の「台本破り」によってめちゃくちゃにやられてしまった。そして力道山はマスコミや表も裏の社会も引き連れてし上がってゆくのである。
昭和30年代のはじめ我が家にテレビが入ったとき。三菱電機提供のプロレス放送に近所の人たちも集まり力道山の勇姿に胸を躍らせてた。この時の力道山はダーティーな人間だったことが今ならわかる。
詳しく書いても仕方がない。
力道山は全盛期にヤクザに刺されて死んでしまった。それだけ憎まれていたのだろう。木村政彦は70歳過ぎまで生きて柔道のために生きる。
木村の生き方に共感はしないが涙がこぼれるほどの悔しさと思いが伝わってきたことは書いておこう。
ところでこの本の中に一行だけだが木村政彦などの柔道家たちが海外に出て行ったことのある人に「伊藤徳五郎」という名が出てくる。
ン?この名前は聞いたことがある。南外村出身の人だ。市町村合併する前の南外村助役やっていたボクの先輩のお爺さんのはず。こんな場所で出会えるんだぁと別の意味でも感動した。
新聞記事から
2023.3.31付の秋田さきがけ新報に『仲間と学び歌会500回』として仁賀保槐短歌会のことが話題として紹介されていた。
1980年から毎月1回開催して500回ってすごいなぁと思いながらじっくりと読んだ。
会員の意気は高く1000回を目指したいともある。とても刺激になった記事だった。
それにしても素晴らしい歴史です。
今日のアマチュア無線
朝方の160mは目覚めが遅くてなかなか海外局とは出会えない。ただ、FO/AA7JVが仏領ポリネシアから出ている。もしかしたら160mにオンエアしてくれないかと願っているが・・・。ただ、彼らの情報にも書いていた「ローバンドはプアーコンディションだから」と言うのが心配ではある。
どうなりますか。
セロリー日記
セロリーはボクが外に出ようとすると後を追ってくる。無線部屋まで連れてくると10分もしないうちに飽きてしまう。結局はボクの背中をチョンチョンと突っついて変えるぞサインを送ってくる。
すぐに連れ帰るのだがすぐに外を見始める。
外に出すわけにはいかないので気の毒だが家の中で飼うしかない。
YGの歌
3月31日 〇中日
アッやばい中田の打った逆転打負けたと思った正直言って
代打には松田梶谷指名され昔の名前のYGなのか?
ゴメンナサイ打てないなんて周平さん九回逆転YG負けた
4月1日 ●中日
デーゲームテレビは見ずにラジオにて涌井の粘投つぎだよ次さ
本日はこれにて
太陽に向かって開く紫の花は春告げキクザキイチゲ