ボブ・ディラン 愛があってこそ


ボブ・ディラン
 先日のブログで「志麻ちゃん」と「むらくん」を紹介した。二人の路上ライブを聴く前にボブ・ディランの自伝映画「アイム・ノット・ゼア」を観た。だからギター一本で表現活動をすることは素敵だなぁと思ったのである。がんばれ二人。

 映画はボブ・ディランを黒人の子どもや女優ケイト・ブランシェットなど俳優6人で演じる。ケイト・ブランシェットは若い頃のディランによく似ている。このように6人で演じ分けることが封切り前から話題になっていた。つまり、ディランのとらえどころのない性格を表現したのかもしれない。(写真はパンフレットからコピー)
 映画の感想。自分としてはとても楽しい映画だった。懐かしい曲。10秒くらいのカットだがビートルズは良いぜというディランのメッセージ。そして、ディランの繊細な人柄が垣間見えたこと。良かった。カリスマとして追いかけられ詩や生き方の意味を常に求められていたディラン。それをケイト・ブランシェットが演じるディランが「意味なんかなくても良い」と言った言葉がとても印象に残った。

 3年前に購入して三分の一ほどで読んであきらめていた「ボブ・ディラン自伝」を引っ張り出し読み直した。帯には「伝説が終わり、真実が始まる。つくり上げられた偶像のヴェールを剥ぐ」とある。
 実に読みにくい。何しろカタカナの人名が山ほど出てくる。ところどころに60年代のポップスターの名前が出てくるのでホッとするのだが。ほとんど知らない登場人物だから相関関係がわかりにくい。それでもゴリゴリと読み進めた。彼に大きな影響を与えたフォーク歌手ウディ・ガスリー(登場する黒人の子どもの名前)や女性について語られる部分は納得できた。
 構成は映画と似ている。もしかしたらこの自伝を基にして映画化したのかもしれないと思った。映画も本も時代が60年代から80年代へと行ったり来たりする。時系列の通りに進まない。ジェットコースター状態。それが良いのかもしれない。
 繊細で素直で常に変化しているボブ・ディラン。だからアイム・ノット・ゼアだろうなぁ。「もうここにはいないゼボクは常に変化している」というメッセージだと思った。
 
 ボブ・ディランは秋田で2回公演を行っている。その2回ともボクは聴きに行った。1回目は県民会館の二階から豆粒のようなディランを聴いた。2回目も県民会館。ステージから5列目で聴いた。テンガロンハットをかぶったおじさん。ロックンローラーだったなぁという印象である。ボクもあんなふうになりたいなぁとも思った。無理だけど・・。

 ところで、自伝の中にあった部分を少し引用。『マキャベリの「君主論」が大いに気にいった。しかしマキャベリの言うところの大半は理にかなっていたが、いくつか気になるところがあった---例えば愛されるよりも恐がられるほうがよいという場所については、彼の考えは不充分ではないかと思う。彼が意味するところはわかるが、現実の人生においては愛されている者のほうが、マキャベリが想像したよりずっと大きな恐怖を煽ることがある。』(ボブ・ディラン自伝 ソフトバンク・パブリシング株式会社より)
 この部分を引用した理由。それはこの言葉を本日労働審判の相手方の理事長や校長に聞かせたいからだ。彼らには「愛」がない。
 
 映画を観ながらとんでもない場面で「くすっ」と笑ったりして隣で観ている人にとっては「???」と思ったでしょう。「ヘンなおじさん」だったことはごめんなさい。ディランの仕草やエピソード思い出したんです。ディランのCDを数枚引っ張り出して聴いていることは言うまでもない。あ~ぁやはりミーハーだ。

 6月11日に「映画ってほんっとうにいいもんですね~」で有名な水野晴郎さんが亡くなった。水野さんがプロデュースした映画館で逝去された日に観たのも何かの縁だ。

アクセスカウンター
リンク
カレンダー
05 | 2008/06 | 07
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 - - - - -
最新記事
最新コメント
プロフィール

Hi-Rock

Author:Hi-Rock
FC2ブログへようこそ!

月別アーカイブ
検索フォーム
QRコード
QR