あるがままに生きよ
禅(ZEN)
先日、映画「禅(ZEN)」を観た。あらすじは次の通り。
時は鎌倉時代。
曹洞宗の開祖道元禅師の生涯を描いている。
約750年ほど前。道元は仏道をきわめようと宗に渡る。宗で何回も指導者に幻滅して師を探し求めた。そして、とうとう師にめぐりあい道元は悟りを得て日本に帰る。
帰国した道元は自分の悟りを得た教えを京都で「たんたん」と布教した。道元の教えに共感を得る人が増えた。しかし、周囲の堕落した僧たちから孤立し邪宗の烙印を押され福井の永平寺へと移っていく。
永平寺で道元は、「あるがまま、自然の流れに身を任せ、ただ座るのみの只管打坐(しかんたざ)座禅を実践した。しかし、その座禅はけっして一人の孤独の行ではない。人と人が共に生き、喜びや悲しみを分かち合い、明日への希望の光をどのように見出していくかを追求するのである。
時の権力者北条時頼は戦乱のために流した血によって怨霊に苦しめられていた。時頼を救ってもらいたいと依頼され鎌倉に向かった。
憔悴した時頼はすぐに救ってもらいたいと言う。
道元は言う。
「水に映った月は切ることできない。切ったと思ってもまた映る。消えることはない。同じように怨霊の苦しみはあなたの苦しみ。この苦悩をすべて受け入れる。そのためには己を捨てて座禅あるのみ。煩悩を解き放ち、無になるのです。あなたは救われたいと願いながら、何一つ捨てる勇気がない」
激高した時頼は道元を切り捨てようとする。しかし・・・・。
今は全然お寺と関係ないがボクは禅宗曹洞宗の末裔である。父が曹洞宗の某寺の生まれ。次男だった父は南外の売り酒屋に婿入りした。つまりボクの祖父は僧侶であり、従兄弟は某寺の住職である。
圧倒的な「力」をふるう権力者には「心」で立ち向かえるのだ。映画を観ながら何度も涙がじわーっとこぼれてきた。
人の生きる「道」とは何かを考えさせられた。
道元が時頼に語ったときに詠んだ歌。
「春は花 夏ほととぎす 秋は月
冬雪さえて 涼しかりけり」
映画館を一歩出た途端に「人を思いやり、人を慈しみ、人を大切にする気持ちがボクの中にはなかなか育たないなぁ」と気持ちがシュルシュルッとしぼんじゃった。
なんてこった。
でも映画は良かった。道元はすごいぞとあらためて認識したことは事実だ。
いつの世も心涼しく落ち着けと
語りかけるよ道元禅師
これにて本日のブログは終了。さぁ、心を静めてお茶でも。