野球道の再定義とは(2)
逆さ富士ならぬ・・・
昨日の田んぼの水シリーズの続きである。峠道を出ると山間に狭い田んぼが見え始める。田んぼには小さな山が映し出される。
名写真家ならば「逆さ富士」のような見事なスナップを撮影するのだろう。しかし、迷カメラマンのボクは「逆さ小山」を撮し込んで満足満足である。
まぁ、何となくひっくり返った山が見えるだけで妙にうれしいのであった。フフフフ。
ついでと言ったら何ですがハシ休めとして菜の花を1枚つけたしです。
田の中に逆さに映る山を見ていつか会いたし逆さの富士に
「野球道」の再定義(その2)
前回の続き
体罰をする場合、指導者は部員との間に「心の交流」があるから体罰は「愛のムチ」だと認識している節がある。この言葉は言い訳に過ぎない。大間違いだ。と、ボクは考えている。
また、ある時に次のような話を聞いた。
「バシッと殴るのは教育の一環」
「・・・・」
「教育の(教)という字には斜めの線がある。これはパシッと叩く方向の意味ですよ」
「(袈裟懸けの意味か)・・・・」
「だから教育には愛のムチが必要だ」
「それって殺すの意味では・・・」
と最後にちょっと皮肉っぽく言うのが、せめてものボクの反論だった。なんと迫力のないことか。
今までの野球道では暴力をふるう強面がもてはやされた傾向がある。それが部員に尊敬されたり頼られたりするのだと勘違いしたのだろう。さらに絶対服従させなければ作戦も思うとおりできないと考えた可能性もある。
しかし、真のスポーツとして野球を考えたら。尊敬される指導者になる。頼られる先輩になることは避けては通れない正しい方向である。
そうそう、今朝(2010.5.21付)の朝日新聞に「甲子園への道 5月号」の特集が組まれている。その中に元ロッテの小宮山悟氏が「仲間と考え、練習積み自信」として次のように語っている。少し長いが引用したい。
「僕(小宮山氏)は高校野球を楽しもうと思っていたので、いうなればかなり牧歌的な球児だった。野球への接し方は、基本的にその選手にとって野球がどれだけのものかという部分でいいと思う。ただ、野球というものが勝利を目指してチームとして戦うと言うことなので、当然チームワークが必要になってくる。そこをきちんと仲間たちと一緒に手を取って築き上げていってほしい。夏の大会に向けて、みなさんに精神的なアドバイスができる。それはこれからの練習でどれだけ自分に自信を持てるかと言うこと。練習量がその自信につながる。人に負けないものをおれはやったんだと言えれば、精神的に優位に立つことができる」
この小宮山氏の話の中にも絶対服従ではない「何か」を感じる。
周囲には尊敬される指導者も信頼される先輩も多く存在している。その人たちの地道な活躍に期待したい。
もう一回このことについて続きを書きたい
本日の春季秋田県高校野球の結果
【1回戦】
秋田南 8- 1 能代商
横 手 3- 2 由利工(延10)
【2回戦】
鷹 巣 4- 2 西仙北
本 荘 11- 2 大 館(7コ)
【本日のワイルド・メモ】カラス・キジ・カワラヒワ・スズメ・トビ・ムクドリ・カルガモ・アオサギ・ホオジロ
明日からは北海道小樽だ。飛行機で往復するのだが、あんな重い物体が空を飛ぶなんていまだに信じられない。機内ではどうしようもないので、ひっそりとしていよう。その後は小樽のホテルでクラス会。ひたすら飲もう。と、言うわけで実はとても楽しみである。それでは本日のブログは終了。明日の今頃は北海道の空の下。