健康診断とは
相変わらずの梅雨空
今朝は軒先を通り抜ける風がピューピューと音を立てている。風が強く小雨模様だ。外に出てみたらイタリアトマトのプランターがひっくり返っている。
あわてて支柱を丈夫にして立て直してやった。4個ついていたトマトの中の1個が落ちてしまった。まだ青くて熟す前だったから,とてももったいない。仕方がないので薄切りにして軽く塩をして食べてみよう。
ついでにボケの茂みを見たら,薮の中では小さな実が幾つかついている。これが育って大きくなってゆくのだろう。とりあえず「子どもの実」を1枚写してみた。
健康診断
今日,地域の健康診断がおこなわれた。職場を午後から有給休暇をもらい診断を受けることにした。今回は大腸癌・前立腺癌および胸部レントゲン撮影である。
ところで,週刊誌「週刊現代」7月17日/24日号を見ていたら次のような記事があった。『全国民必読 長生きしたければ病院に行くな』サブタイトルが『余計な検査は受けないほうがいい,病気を作るだけだから』である。
簡単に見出しなどを要約すると次の通り。「検査で体調がおかしくなった」「がん検査で寿命は延びない」「行けば行くほど二次がんに」「メタボ検診は無意味」「病院は必死で以上を探す」などなど・・・・。
この記事のリードには次のような文がある。引用させてもらう。
『「肺に影が」「胃の数値に異常が」そんな所見が出て,一瞬頭が働かなくなった経験はないだろうか?精密検査の結果を待つ精神状態は思い出したくもないはずだ。このストレスこそ,病気の源である。』
ウーム。読んでみて確かにそうだなぁと考え込んでしまった。この記事の内容はボクに全部当てはまる。
ボクは基本的に病院が嫌いだ。行きたくない。病気だと言われたくない。病気だと信じたくない。病気であるはずがない。と,常に思っているし日常生活は何の問題もないからだ。言い換えれば,臆病なのである。
病院は何か異常がある時以外は行かない。だから薬も飲まない。飲むのは酒精分としてのアルコールだけ・・・。これが一番身体に良い。当然ですけどね。
さて,記事の冒頭には拓殖大学学長で経済学者の渡辺利夫氏の話が掲載されている。それも引用しよう。
『(渡辺さんの話)「老化をあるがままに受けいれ,痛み,苦しみがある時以外は,病院には近づかないほうがいいのではないか,私はそう考えています。還暦の時に妻ともども決心して,健康診断やら人間ドック,血液検査さえもすべてやめました。そして,そうした検査のストレスがいかに重かったかということに気づいたのです。私たちの日常は,とても穏やかなものになりました。』
タバコを吸っていた渡辺さんは40代50代の頃検査を受けた。肺に影があるといわれて精密検査を受ける。肺の一部を切り取る生体組織検査をする。その予後が大変である。さらに結果が出るまでの凄まじいストレスを受ける。彼は年をとれば,検査で何らかの異常値は必ず出る。加齢とともに異常値の出る頻度は確実に高まる。症状もないのに検査によって病気を探り出すのはやめようと決めたとのこと。
また、次のような内容も書いている。「ドックで見つかるがんは緊急性のないものが多い。緊急性のあるものは,ドックにかかる前に発現している。」
それじゃあ,今日なぜボクは検診に行ったのかだ。やはり,ちょっと心配なのである。何となくお墨付きが欲しい。なんと軟弱なことか・・・。
この記事の結びにある次の言葉が印象的だ。
『健康は病気を怖れながら得られるものではない。病気の存在を忘れる時にこそ得られるのだろう。つまり,「病院で検査を受けていれば安心」という考えは幻想なのだ。長生きの秘訣,最高の医療とは,過激な健康志向に縛られずに生きることなのかもしれない。』
ボクがこの年齢になったら,病気になる時はなる。それはある意味「運命」だろう。もっともこの年齢と言っても,まだまだ若いつもりでいる。何しろ精神年齢はかなり低い。もしかしたら二十歳になっていない可能性が大だ。だからこそ,今元気でいられることを楽しむべきだ。具合が悪くなった時にいよいよダメだなぁとあきらめて行くのが病院だと思う。決断の時かもしれない。
診断がこわくて行かず検診は妙な強がり臆病者は
【本日のワイルド・メモ】アオサギ・ムクドリ・カラス・トビ・ウグイス・ツバメ・カワラヒワ
今日は休暇をとったので車は明るい山道を走った。道路脇にキラリと輝く白い花が目についた。車をとめて撮影。おそらくガクアジサイの仲間だろう。道路脇から写真を1枚。レンズを取り替えたので白色が少しはじけ気味。ま、いいか。これにて本日のブログは終了。