
うろこ雲に秋を期待
今朝の空にはうろこ雲があった。ウームこれは秋が近いなぁ。と期待しながら一日を過ごした。
ところが暑い暑い一日だった。アマチュア無線の世界では空の様子(電離層のこと)は実際の季節よりも早く訪れる。と、大先輩たちに聞いた。確かに電波の伝わり方は実際の季節よりも早めに推移するように感じていた。
今朝のうろこ雲も、一足早く訪れた秋の高い空を思わせるものだった。間違いなく秋は近寄ってきているのだが「何か」が妨げているんだろうなぁ。
これだけ暑い日々が続くと涼しい秋が待ち遠しい。
謙虚と感謝
ボクは高校野球で大切な要素は3つあると考えている。3つとは「感謝」「素直」「謙虚」である。それは、これまで高校野球を一緒に携わった監督さんたちと共感できるものだった。と、思っているのだ。
この3つの気持ちを持つことが上達への道だと信じている。
しかし、これはあまりにも精神論的過ぎるのかもしれないなぁと考えていたのも事実。
以前、ある部員に話されたことを思い出す。
「謙虚と言いますが野球は戦いです。謙虚にするのは相手に遠慮して試合をするのですか」とたずねられた。ウーム・・・。
確かにそう感じるのはわかる。
「謙虚と言うのは,自分が強くても相手を尊重し、自分が弱くても自分を卑下しないこと」と自分でもわかったようなわからないようなことを言った覚えがある。
先日、福島の友人からメールが届いた。これは田尻賢誉さん(通称タジケン)の高校野球解説についての話から交わしたメールからだった。
友人はとても示唆に富む内容を書いてくれた。ボクの目を見開かせてくれた。わかりやすい内容である。少し長くなるが、友人に了解を得たので引用したい。
『(タジケンの野球解説は精神論過ぎる)との批判は、結局、高校野球を「娯楽競技」としてみるか「教育活動の一環」としてみるかの違いかと思います。
たしかに「勝利をいかに得るかのゲーム」として観戦している人からすれば、体力消耗にしかならないアウトになるのがわかっていて無駄に一塁に全力で走ったり、攻守交代の時に全力で走る無駄なことを奨励するのは理解されにくいかもしれません。
以前の私も多少、そんなところがありました。結果主義というか、過程はどうであれ、理にかなっていて、結果を出せるならいいのでは、とね。でも、それでは長くは続かないんですね。
カウンセリングの研修を受けた時にカウンセリングの先生が、さんざんいろいろな問題のある子達の話や、心の闇の話をしたあとに、最後にしみじみ言ったことが心に残っています。
どんな学力の低い子でも、どんなに心の病んだ子でも、最終的に「感謝する心」と「謙虚さ」さえ備われば、社会でやっていける。
「感謝する心」と「謙虚さ」が本当にあれば、少なくとも「一塁に走らない」という行為はありえないと思うんですけどね。結局、彼らが社会に出てから、どうなのかという視点があるかないかということですね。どんな仕事だって、全力でやらなければいい成果はでてこないでしょう。
これを精神論というのなら、店などで、呼んだらさっと素早く客の前に駆けつける店員と、たらたらと何かやりながらやってくる店員と、どちらがいいかという話ですよね。
時間としては十秒程度の違い(もしかしたら結果的に時間差はない場合もあるかも)でしかないかもしれませんが、心理的な印象の差は決定的です。
ちなみに、カウンセリングの先生はつけくわえて「感謝する心」と「妄信する心」、「謙虚さ」と「卑屈さ」は、明確に区別しないといけないと言っていました。こういう微妙な所を突いてくるのが、さすがプロです。
「感謝の心」よりも「謙虚さ」の方の理解はなかなか難しいですね。山登りと一緒で、高い山に登って、初めて他の山の大きさが実感できるのに似ています。
それなりに客観的に物事をながめる素質がないと本当の「謙虚さ」は生まれません。がむしゃらに高い山に登って、頂上にたどりついて「お山の大将」になるのが人情というものです。
頂上に立ったとき、いかに自分の存在が小さかったかを理解できるかは、やはり広い視野が必要なのです。ぼんやりしていると今、立っている頂上が、一番高いような錯覚におちいるものなのです。また、平地から高い山を見上げて「高いなあ」と感嘆してるだけの状態も本当の意味での「謙虚さ」とは言えないものです。登ってみて、それぞれのレベルで実感しなければ』
引用しながら「そうだよなぁ」と再度納得。「お山の大将」もずいぶん見たなぁと、改めて自らを見直す契機になった。引用に感謝感謝である。
【本日のワイルド・メモ】カラス・ゴイサギ(多数)
中型のゴイサギ群れて乱舞する雄物河原のススキは金色
まだまだ暑いですねぇ。何となく疲れ気味。今宵は古今亭志ん生を聞きながら寝よう。これにて本日のブログは終了。