
久しぶりの鳥海山
稲刈り真っ最中である。コンバインや軽トラックが田んぼで活躍している。曇り空の夕方。遠くには鳥海山が見える。そして、太陽は薄曇りの中でうっすらと輝いている。久しぶりに金字形を見た気がする。刈り入れの音が胸に響く。
強いだけでは勝てない
全県新人戦の時に携帯電話が鳴った。
「もしもし、今日放送されたラグビーの番組良かったですよ」
「旅館にいるから見ることでネーべ」
「来週、再放送があるから見てください」
「わかった」
その番組はNHKプレミア8「ラグビーこそ我が人生~強いだけじゃ勝てない~」だった。
早速、再放送を録画。そしてDVDにして番組を見た。番組は1時間半。エピソードはたくさんある。その中から印象に残ったことを少しピックアップしたい。
関東学院大学ラグビー部部長春口廣61歳。彼の波瀾万丈とも言えるラグビー人生をたどった番組である。
3年前に大学日本一になった絶頂期に部員の大麻問題が出て彼は監督を辞任。しかし、部員の強い願いで部長として復帰しラグビー部の再起をかけている。
春口は37年前に日体大ラグビー部から24歳の時に赴任した。その時、関東学院大学のラグビー部は三部リーグで部員は8人だった。そこからチーム作りを始めた。
彼は部員に「早・慶・明と対戦するんだ」と話し続けた。部員からしたら夢のまた夢のような話だった。しかし、彼は言う。
「大きな夢を持たなければそれは実現できない。三部リーグで勝つ。あるいはその試合だけをやるのでは夢は実現することはない。小さな夢を積み重ねて大きな夢を実現するのだ」
そして、着実に一歩一歩チームには力が付いてくる。9年かかって二部にあがりその後二部で優勝。一部の拓殖大学との入れ替え戦。ノーサイド間際の奇跡的なプレーによって勝利し一部昇格。ここまで来るのに10年以上はかかった。春口の夢を実現するまではかなり近くなってきた。
しかし、春口一人での指導には無理が出てきた。そこに招いたのが後輩の河西コーチだった。教員になるのが難しくて食堂の係としてラグビーに携わってくれたそうだ。それでも文句を言わずにラグビーが好きなのでとにかく一生懸命に部員と監督の間をつなぐ貴重な役割を担った。ところが一部の優勝がかかったときに河西コーチは突然の交通事故死。しかし、チームは一部優勝。
その時に優勝は自分が実現させたと思っていたと春口は言う。だが、やがて河西コーチの存在の大きさを知ることになる。
春口はチームが強くなってきたのと同時に規則を厳しくしていった。当然、部員との間に亀裂が入ってくる。そんな中、寮内で喫煙をした部員三名を退部に春口は追い込む。部員との亀裂は一層深まり春口は悩む。河西コーチの存在の大きさに気づく。
そのことを聞きつけた日体大の恩師綿井さんから連絡が入る。綿井さんは入院中だった。春口は病院にかけつけ部の運営について恩師と話し合う。恩師は言う。
「ラグビーが好きな学生にラグビーをさせないのはなぜ?」
「だって部の規律を乱している部員はダメでしょう」
恩師はさらに
「煙草を吸うのだったら煙草を吸わないように指導して、ラグビーを続けさせることが大事なことではないか。君もラグビーが好きだからわかるだろう。ラグビーを取り上げられることがどんなに辛いことか」
春口はコーチの存在の大きさ。自分の傲慢さなどに気づいてゆく。
番組の中で何回か春口はラグビー精神を話している。
「ラグビーは自分が目立つのではなく人を生かすこと。トライではなくトライする人を支えてゆくこと」
なるほどなぁ。と、テレビ画面を見ながら納得するボクがいた。
そして、初の大学日本一を決める国立競技場のこと。その年は積雪があり国立競技場は雪に覆われていた。
ラグビー協会から「関東学院は部員が多いから試合に出ない選手を雪かきに出してくれないか」と要請された。4年生も含めて百人近くの部員が雪かきに行った。そして、試合が始まる前にはきれいな芝生が出て決勝戦がおこなわれることになった。その時の4年生がしみじみ言ったという言葉がいい。
「これで初めてチームの役にたったなぁ」
。その言葉を聞いたときに春口は「勝った」と感じたそうだ。百人を超える部員全員が一つになった。「負けるわけがない」と。
春口監督のモットーは部員が百人を超えようが全員で練習する。これを大事にしている。素晴らしいことだ。
この番組を見てあらためて「一人は皆のために、皆は一人のために」を信じることができた。
強いだけじゃ勝てない。そこに「人の存在が必要なのだ」と思った。
全てのスポーツにつながる話だなぁ
今宵は若き友人の受験終了のご苦労さん会と就職の激励会で一杯やります。本日のブログはこれにて終了。