野球は指導の難しい競技
シマドジョウとキンギョ
ちょうど1年前のブログ(2010年6月10日付)に飼育しているシマドジョウの警戒心が強くてなかなか人前に姿を現さないと書いた。
その後、一冬を越し大震災を生き抜き水槽で生きていた。どうにも水槽の中が寂しいので金魚を3匹購入して入れてみた。
すると何と言うことでしょう。シマドジョウたちがゾロゾロと土の中から出てきて餌を一緒にあさっているではありませんか。人の姿を見ても土の中に隠れることもない。堂々としている。やはり仲間って大切なんだなぁと思うのだが。はたして・・・・。
「野球の指導者は、なぜ選手を殴るのか?」(1)
青島健太氏が書いたエッセイから何回かに分けてダイジェスト的に引用して考えてみたい。
『菊池雄星君がデーブ氏に殴られて西武ライオンズをクビになった。その訴えが起こされている。かつてプロ野球では鉄拳制裁が平気でおこなわれていた。あの穏やかな長嶋茂雄氏ですら監督になりたての頃は情熱余って選手を殴ったという。西本聖氏が「そのおかげて成長できた」と当時を振り返っている。
楽天の現監督星野氏も中日の監督時代にパンチそのものが「売り」の監督だった。ゲームの途中でベンチの扇風機にパンチをしてこれを破壊する映像は「闘将・星野」の紹介に必ず流れるシーンである。
当時、投手陣が打ち込まれると、翌日なぜかキャッチャーが腫れた顔で練習していた。おそらく監督の厳しい指導があったのだろう。しかし、それも期待の裏返し。どんなことがあっても若いそのキャッチャーはスタメンに名を連ねていた。
2010年秋に日本学生野球協会が不祥事のあった高校にくだした処分。全8件のうち4件が監督の部内暴力である。続いて、年末の処分が発表された。12校13件が対象だったが、これまた大半が監督や部長の部内暴力だ。対外試合禁止、指導者の謹慎などの処分がなされるが、暴力事件はなくならない。実態としてはもっとあるはずだと見るのが自然だろう。
このように高校野球でも教育的な理念や道徳的な倫理を説いても一向に暴力事件はなくならない。言ってしまえば、それが野球界の伝統であり文化。指導者が選手を殴るのは止まらない生理というか、延々と続いてる歴史そのものなのだ。
マンガでは殴られた人の上に星が飛んでいるが、あれは事実だ。殴られると目の前が暗くなって夜空に星が輝くように何かがピカピカ光る。なんで知っているかと言えば、もちろん私も殴られたことがあるからだ。
殴るのは悪いに決まっている。しかし、多くの指導者が処分があるというのに選手を殴ってしまう。 この事態を好意的に考えれば指導者が選手を殴ってまで伝えたいことの周辺に、また押さえきれずに殴ってしまう感情の爆発に、野球という競技の本質と難しさが潜んでいるからなのだろう。
指導者が殴るのは選手たちの礼儀や素行が悪いばかりではないと思う。野球は教えるのが極めて難しいスポーツであるからではないだろうか。指導者が選手としての経験があるからといって、そう簡単に野球は教えられない。
なぜなら、打つことも、投げることも、ボールを捕ることも、その動きの核心は一秒にも満たない時間の中に凝縮されていて、極めて感覚的な行為だからだ。それは一瞬の動きであり、視覚的なものへの反射ともいえる。神経に流れる情報を言語化するわけだから自分(指導者)がやってのけていることを説明するのは難しい。
そうなるとどうなるか?
多くの指導者は誰もが指導できる基本と、礼儀や練習態度を中心に指導することになる。野球への取り組み方を叱り、ミスをつかまえて怒る。そして緊張感のない選手を時々殴りつける。場合によっては百人近い部員をひとりで指導することになる。多くの指導者にとって、できることはある意味それしかないのだ。
もちろん技術的なヒントはあたえられる。そして、セオリーや戦術は教育できる。しかし、打つこと,投げること、捕ることの本質的な感覚は、自分自身で発見する意外にない。それが野球なのだ。』
と、ここまで青島健太氏の文を引用した。なるほどなぁと納得する点がある。ブログの字数制限で以下は次回にまわします。
もしかして勢いあまる指導って迷惑以外の何者でなし
これにて本日のブログは終了です。