野球は監督が戦う競技
古新聞パッグ
先日、大曲の『年金者組合』で古新聞バッグ作り講習会が開催された。 その講習会に、なんと言うことでしょうボクが講師に招かれて作り方の指導をすることになった。参加者は6名ほどだった。
ところで年金者組合とはいろいろな職場を退職してから年金生活(ボクもその一人)をしている人たちが組織を作って年金のあり方などを検討して高齢者のよりよい生活を確保してゆこうとする組合組織だ。まぁ、高齢者が組織している組合である。
参加してくださった方もボクよりも年輩の方が多かったはず。いろいろな古新聞を持っていったのだが選んだのは日刊スポーツの一面だった。皆、若いですねぇ。スポーツは元気をつけてくれるのでしょう。
糊付けをし、折り紙をしながら製作時間約1時間ちょい。
作るときにボクは合言葉を言いました。
「いい加減は良い加減だす」
すると母さんたちは
「エーアンベでコシェレバエーな」
「そういうことだんし」
皆ができあがったパッグを見てニコニコと。
いいですねエコなんですね嬉しいね皆で新聞バッグを作り
「野球の指導者は、なぜ選手を殴るのか?」(3)
前回まで野球は指導が難しいし、監督と選手が同じユニフォームを着用しておこなう競技である。そのあたりに指導者が選手を殴る背景があるのではないかと青島健太氏の推測を引用した。引き続いて。
『日本では「総理大臣とオーケストラの指揮者と野球の監督は男なら一度はやってみたい仕事だ」とよく言われる。これが日本の監督像(あり方)を見事に表している気がする。
この三者は多くの人を指揮下に置き、自分の思い通りに人を動かせる立場だ。それが男なら一度はやってみたい仕事なのだ。
日本における野球では、選手を自分の指揮下において、それを統率、あらゆることで命令に服従することを求めてくる。これは軍隊の指揮系統にも似ている。高校野球における丸刈りは、服従の象徴のようにも映るし、自主性を奪うための髪型としても機能してきた。
日本の野球では選手を奔放にプレーさせようとする指導になることは必要ない。その逆に、選手をピリピリさせて、チーム全体に神経を張り巡らす戦い方を目指すとき、指揮官は選手を殴り感度を高めようとする。それは、そのまま日米の文化の差「野球」と「ベースボール」に違いとも言えるだろう。
アメリカではベースボールを「自由な打撃のゲーム」として戦うのに対し、日本では野球を「堅実な守備」を基本に組織的に戦っている。組織と守備を鍛えるためには、練習の段階から緊張感を高めていく必要がある。
野球はおそらくどの競技に比べても「監督が戦う競技」なのだ。先にも述べたがラグビーやサッカーではゲームが始まるとほとんど監督の出番はない。すべてを選手に任さなければいけない競技ならば、監督がいなくても戦える。自主性と創造力のある選手を育てなければ勝つことはできない。その意味では選手を自立させ、服従とは反対の方向に選手を指導していく必要がある。
それにひきかえ野球は、監督がユニフォームを着て先頭に立って戦う。選手は監督の戦術を理解して、それを確実に遂行することが求められる。強いチームほど、高い感度と正確な技術を持ち、失敗やミスを犯さない。
困ったことに野球には、指導者が選手を殴りたくなる場面がたくさんあるのだ。団体競技でありながら、打つこと、投げること、守ること、個々のプレーは個人単位で独立している。ゲームはイニングごとに止まり、選手の活躍の有無がすぐに分かる。打ち込まれた投手、エラーをした野手、バントを失敗した選手、チャンスで凡退した打者・・・・責任の所在が常に判明し、怒ったり説教をしたりする時間がゲームの中に豊富にある。
極論すれば、野球は「監督が選手を使って戦う監督の競技」なのだ。野球で負けて恥をかくのは監督なのだ。逆に優勝すると誰よりも先に胴上げされて、勝利者インタビューも真っ先に受けるのが野球の監督だ。もちろん礼儀やマナーの意味で年長の監督が優先される面はあるが・・・。その価値観や上下関係も日本の野球が熱心に教えてくれるものだ。
野球では監督がチームで一番上位にいる。その偉い存在が選手を使ってゲームをする。それが野球だ。だからこそ多くの指導者が、選手を殴ることに抵抗がない。
野球の指導者が選手を殴る。実は、その事実か日本における野球が「監督が戦う競技だ」といことを何よりも物語っている。それゆえに野球の監督には、選手以上に知性と品格が求められている。』
以上が青島健太氏の考えている野球の指導者がなぜ選手を殴るのかの考察である。なるほどなぁと思える点もある。ボクの考え方については字数の関係で後日書きます。
今日は秋のような冷たい風が流れる涼しい一日だった。空を見上げると空の色も雲の形も「秋」の感じだった。これで本日のブログは終了です。