昔ばなしの著作権は?


夕焼けの鳥海山

 東京は大雪で大変のようだ。今朝のテレビを見ていたら八王子駅前が積雪でシャーベット状になっていた。こりゃあ大変だろうなと人ごとながら少し心配した。
栃木の友人からも車の上に10センチほど雪が積もった写真がメールで送られてきた。都会の積雪は雪のあるうちは問題ないが次の朝に凍結した時が大変だと彼は書いている。積雪による怪我人も雪が降った次の日の転倒事故で出ているようだ。

 日本列島はおもしろいことに、こんな時には雪の降り方が逆転している。秋田は天気がとても良かった。
 しかも夕焼けの中に夕焼け鳥海が顔を出してくれた。久しぶりに良かったなぁ。

   珍しく夕焼け鳥海現れて儲けた気持ち今日はうるう日


昔話のCD

 一昨日、突然の電話があった。秋田県埋蔵文化財センターからである。通称「まいぶん」。アレッどうしたんだろうと思ったら南外村の文化的遺産とも言える『徳五郎昔話』についての問い合わせであった。内容は「南外村に保存されているCD「徳五郎昔話」の著作権はどこにあるのか」という内容だった。

 CD「徳五郎昔話」の経緯は次の通り。
 堀井徳五郎さんという方が南外村におられた。もし、存命ならば127歳前後の方。多くの昔話を知っていて語り部として有名な方だった。小学校の先生をなさってたらしい。

 昭和42年頃に徳五郎さんは南外村の公民館などの協力で昔話を語り下ろしたオープンリールのテープを5本残した。直径10センチほどのテープにおよそ10時間30分、全93話が記録されている。(真ん中の写真)

 徳五郎さんは全部話し終わった後に次のように話している。
「テープは年を経ると消えて薄くなるという話があります。消えて無くなると困りますから、そういう傾向が見えましたら、私でできるならば語り直したいと思います。もし、私がおらない時にそういうことになりましたら再録音をして保管をしてもらいたいと思います」

 ボクがこのテープのことを知ったのは25年ほど前である。今は亡きボクの弟が役場の社会教育に勤めていた頃だ。その頃、弟に依頼されてオープンリールが使えなくなるからカセットテープにダビングしたのである。すでに徳五郎さんは亡くなっていた。

 7年ほど前、ボクがたまたま公民館を訪れた時にテープのことを思いだして尋ねたらカセットテープはなかった。オープンリール5本があるだけだった。このまま朽ち果ててはもったいない。保存するためにCD化した方が徳五郎さんの遺志にもそうものだとしてボクがCD化にとりかかったのである。

 急遽、オープンリールを再生できるデッキを購入してCD化をはじめた。とりかかったのはいいのだがテープの音声レベルは一定せずとても聞きにくい。
 それでも音声レベルやノイズ除去などをコンピュータ処理して、十分に聞き取れるように作ったのが左側写真のセットである。

 埋蔵文化財センターでは昔話などの資料をまとめる作業をしているとのこと。その過程で『徳五郎昔話』のCDのことがわかった。印刷物にするにしても著作権はどこにあるのか?と、言うことだった。
 そうなると正直言ってボクにはわかりません。徳五郎さんの話の通り「再録音」しただけですからねぇ。
 ボクは公民館にあったテープが劣化するからデジタルにして保存する手伝いをしただけなのである。そこで、公民館に問い合わせて下さいと答えた。
 すると、「公民館では貸し出しをしない。もし聴きたいのならば公民館の中で聴いて下さい」との回答だったらしい。ウーム。こうなればわかりません。
 口伝えの昔話。話しているのはもし存命ならば130歳近い方である。だが誰に著作権があるのかはわからない。はたして・・・。
 そんな電話をもらって7年前に作ったCDなどを引っ張り出して見た。そうそう大仙市の広報にもこのCD化したことは掲載されたのである。(右側の写真一部)


我が家のとわちゃん。やはりボクを家来だと思っているようだ。少し時間があるとボクの肩を引っ張って家の中を徘徊することにつきあわせる。もうすぐ徘徊老人になるかもしれないことを見越しているのか・・・。可愛いやつですねぇ。
これにて本日のブログは終了です。

菅江真澄と勝軍山


寒い冬の原因は?

 連日、水道菅の凍結に気をつかっている。相変わらず冬の寒さが続く。気象庁が原因をまとめた。

『気象庁の異常気象分析検討会は27日、今冬の厳しい寒さと大雪の原因について見解をまとめた。
(1)ラニーニャ現象などで偏西風が蛇行し、寒気が南下しやすかった
(2)日本の西で冷たいシベリア高気圧が強まって寒気をもたらし、西高東低の冬型の気圧配置も強まった―などを原因に挙げた。
シベリア高気圧が強まったのは、地球温暖化の影響でロシア北西部・バレンツ海の海氷が少なかったことも一因と考えられるという』

今日も真冬日。ウーム。もうまだまだの辛抱じゃのう。


勝軍山について

 26日(日)午後から南外村公民館で『地域民俗文化に関する勉強会』が開催された。案内をいただき義理が半分、興味半分で出かけた。

 『菅江真澄「雪の出羽路」にみられる勝軍山について』と題して大森町の阿部孝雄さんの講演会がおこなわれた。勝軍山は南外村のHPに少し記入している。
http://www.city.daisen.akita.jp/content/nangai/html/03_history/history.html
また、菅江真澄をウィキペディアで調べたら次のように書いてある。

『菅江真澄とは江戸時代後期の旅行家、博物学者である。旅先の各地で、土地の民族習慣、風土、宗教から自作の詩歌まで数多くの記録を残す。今日で言う文化人類学者のフィールドノート(野帳)のようなものであるが、特にそれに付された彼のスケッチ画が注目に値する』

 会場には50名近くの方が参加してなかなか熱の帯びた講演会だった。これはこれは歴史好きや地域のことについて知りたい人が多いなぁと感心した。

 南外村と大森町の境にある勝軍山には何度か登っている。大会前に勝利祈願で野球少年たちとともに山に登り参詣したのである。その時に頭の真上から聞こえてきた「ツツドリ」の「ポンポン」という鳴き声が今も印象に残っている。オーッと例によって話があちこちに飛んでしまった・・・。

 この講演会で少し賢くなったことを記しておこう。
 まず、勝軍山は山岳信仰の一つであった。南外(外小友)と大森の境にあり、どちらの地域からもあたらずさわらずの扱いを受けて不運な山かもしれないことを知った。

 資料には『旧神官守屋氏宅、嘉永六年(1853)火災にあい同社の宝物をあげて烏有に帰せしは誠に惜しむべきことなり』
 これを読んだ時「烏有に帰す」の意味がわからなかった。最初は「鳥有」と「ちょうゆう」と読んだ。だが、「鳥(とり)」ではなく「烏(からす)」だった。まったくボクは学がありません。
 「烏有に帰す(うゆうにきす)」の意味は「何もかもまったくなくなってしまうこと。とくに、火事にあって全焼し、何もかも失ってしまうこと」なそうだ。ウーム勉強になったぞ。
 つまり、神主さんの家が焼けて何もかもなくなっちゃった。その中には義経??!!の置いていった扇も燃えてしまったとも言われている。すごいですねぇ。義経は牛若丸ですよ牛若丸。本当かねぇと思った。
 真偽はともかくとして火災によって貴重な資料は消失してしまい菅江真澄の書いたスケッチ(写真)が当時を偲ばせる貴重な資料となっている。

 さらに、専門家の書いている本を何でもかんでも信じてはいかんことも当然のことですが利口になった。ある専門家の書いた本に菅江真澄の亡くなった場所は角館町の白岩と書かれていた。ところが、阿部さんたちが調べたら角館町の岩瀬だったと言うことが判明したとのこと。「違うんじゃないの」と、抗議したが専門家はなかなか訂正しないと呆れ顔だった。新しい発見があるからこそ歴史はおもしろいのかもしれない。

 もっとも名古屋市長の河村氏が「南京大虐殺」がなかったと言うのは新しい発見でもなんでもなく歴史認識がナンセンスなだけだと思うだが・・・。

 またまた話が飛んだが地域の歴史や民族文化に少しでも触れることができた。なかなかに楽しい2時間だった。

 そうそう、50年以上前のこと。外小友小学校では大運動会が開かれた。何しろ全校生徒数が400人を超えていた時代だ。赤軍、白軍、緑軍など学年を越えてグループ分けして色別対抗戦がおこなわれた。その時に各色のチームの応援歌があった。出だしの歌詞は次の通り。

 ♪勝軍山下に鍛えたる
  ○(色の名前が入る)の健児の勢いを

勝軍山は外小友村の水源地とも言える誇り高い山であったことは確かである。何だか歴史家みたいな口っぷりになってしまった。ウオッホホホホ。



我が家のとわちゃん。最近、家人(ババである)に文句を言う。何を言ってるのかわからないが「ベチャベチャ・・・」と叫んでいる。叱られていると思っているのか反抗しているのだろう。いいぞ、とわちゃん。ボクに替わってやっつけてくれ。
これにて本日のブログは終了です。

  チョコレートこんなに美味いものはないカカオとろけたあの時の味

むのたけじさんの話


それにしても寒い

 朝方、吹雪の中から顔を出した太陽はどことなく浮かない顔をしている。まだまだ温かくなれなくて申し訳ないぞ、と言っているようだ。
 案の定、真冬日だった。夕方はマイナス6℃まで冷え込んだ。今朝、職場の玄関で挨拶運動をしている時の会話が楽しかった。

「太陽がだいぶ空の高いところにありますねぇ」
と、Tさんが言う。知ったかぶりのボクは
「ンだなぁ。太陽もかなり近くまで帰ってきたからなぁ」
「そうですねぇ」
言ってくれたTさんの笑顔が良かったゼ。


ハワイのお土産

 ボクはチョコレートが大好きである。我が社のK君が先日ハワイに旅行に行ったのだがそのお土産でチョコレートもいただいた。
 これが美味いです。ありがたいことだ。ごっつぉーさん!。

    海外の旅行は癖になるらしいハワイを語る友の目うっとり


97歳のジャーナリスト

 昨夜、宮城からメールが届いた。そこには『河北新報に、むのたけじさんが25日に仙北市で「郷土社会の生まれ直し」と題して講演をしたとの記事が載りました』と書いている。
 97歳のジャーナリストむのたけじさんが話した内容を紹介してくれた。彼のメールの内容は奥深いものがあるので記しておきたい。
 記事の主な内容は次の通りになっている。

『[タイトル]97歳ジャーナリスト・むのたけじさんが震災後の社会を熱弁。
97歳の現役ジャーナリストむのたけじさん(秋田県横手市在住)が25日、仙北市で「郷土社会の生まれ直し」と題して講演し、東日本大震災後の社会について「人任せにせず、自分で考えて行動することが大切だ」「喜びや悲しみを分かち合い、行動を起こそう」と呼び掛けた。
 むのさんは、被災地の復興を遅らせる政治状況を痛烈に批判。一方、国民の一部に英雄の登場を待ち望む声があることを憂い、「偉人に頼る歴史は全て失敗した」と指摘した。
 全国各地で車座の勉強会を開いた経験から「近所の人や職場の人同士、膝をつき合わせて思いをぶつけ、みんなで動きだすことが再生につながる」と訴えた。
 講演会は仙北市の市民団体が主催し、約60人が参加。地元の劇団研究員坂川明子さんは「自立することの大切さを実感した」と話した』

 この記事を読みながら確かに現在の大阪や東京いや日本には英雄を待望する状況がある。自分で何もやらずに英雄(そんな人間はいませんし村田英雄でもありません・・・)が出てくれば全部解決するという幻想を抱いていると言える。結局は人任せ。最後にしっぺ返しを受けるのは自分と言うことがわかっていない。
 プラス「うっぷん晴らし政治の期待」がある。うっぷん晴らしの方向は公務員であり、教師であり、公教育である。
 この一つの例が大阪府が取り組もうとしている「教育改革」いや「教育改悪」がある。また市バスの運転手たちの給料4割弱の給与削減。これの施策に何となく危険性を感じながらも「世の中は良くなるかもしれない」と目をつむる。結局は英雄が英断を下す(つまり暴挙なのだが)ことによって教育(教師)や公務員が良くなるという幻想である。間違いなくダメ。

 メールを送って下さった人は20代の頃からむのたけじさんの発言が納得できて感動したとのこと。ボクも2009年7月16日付のブログに書いたが、むのたけじさんの講演を聴いて感動した。もうすぐ百歳になるのだが話は歯切れが良く真実をついている。


我が家のとわちゃん。仏壇が大好きだ。木魚と鐘をたたき、水はぶちまけ、ご飯は両手で口にいれる。あげくに線香を立てをひっくり返して灰神楽。ウーム。さすが寺の末裔だ。
これにて本日のブログは終了です。

3.11と短歌(2)


除雪

 気温は上がらない。しかし、午前中に青空になったのでしばらく家の周りに放置して溜めていた雪の塊を除雪をすることにした。
 さすがに太陽の力は戻っている。除雪機で少し地面を出しておくとドンドンと地面が広がってくれた。よく言われるのだが「雪の下から溶けてゆく状態」だろうなぁ。
 これからは「いつまで雪が積もるんだろう?」のような前の見えない絶望的な状況はなくなってくるのは確実だ。一歩一歩春へと向かっている。
 写真は南外村役場の上空である。それにしても今では南外村役場とは言わず大仙市南外支所というらしい。まったく・・・・南外村保存会としてはつらいものがあるゼ。


3.11からまもなく一年(2)

 大震災から少し落ち着いたと思われる5月。あの狂乱のガソリン欠乏状態も脱して秋田は何ごともないかのような状態になった。
 桜も散り過ぎ通勤する道にはタニウツギが咲き始めた.。ピンクの花が山間の道路に目立つようになった。とてもいい季節である。
 だが、フクシマは原発の被害がどんどんと拡大して大混乱である。東電も政府も情報をひた隠しにしていた。同じ空の下にいながら理不尽な状態だなぁ。と、ボクは考えた。

   タニウツギそよがす風はやわらかし雲の向こうにフクシマがあり

 先日の進路講演会で話されたN谷さんの原発の話が印象的だった。N谷さんは2台の簡易ガイガーカウンターを常に持参しているとのこと。そのガイガーカウンターを実際に示しながら次のように話した。

「放射能は秋田だから安心できるわけではない。ジワジワと秋田にも迫っている。いまになっても福島では絶望的な数値になっている。新幹線で仙台から東京に向かう時にこのガイガーカウンターを窓の側に置いておくと、福島付近ではメーターが危険ゾーンを示して危険信号がピーピーと鳴って止まらない」

まだまだ福島は絶望的な現状なのだ。

 朝日新聞(2012.2.20付)の記事には次の記述もある。

『朝日俳壇選者の長谷川櫂さんが直後に作ったのは短歌だった。12日間で詠んだ作品を、4月に『震災歌集』(中央公論新社)として緊急出版した。
    日本列島東国はいま死に瀕(ひん)し西国はそをうち伏して嘆く
 「当日から短歌が続々と浮かんだことに驚いた。津波は天災だが、原発災害は人災。怒りがあった。季語で命を称賛し、切れで間合いをとる俳句では切羽詰まった状況を詠めなかった」』

 まだまだ3.11は日本に重くのしかかっている。昨日の繰り返しになるが日本人は長い間地震による震災からはタフに復活してきた。神戸の大震災でも復活している。しかし、原発は収束することができないのだ。人災なことは明確なのだが一度暴走し始めた原発を制御することができない。

 と、先日の新聞を見ながら1年前のことや、これからのことを少し考えている。

   絶対に忘れてダメなことがあるそれはフクシマそしてフクシマ


我が家のとわちゃん。先日届いたドデカイスヌーピーと一緒にご機嫌である。ところで彼女が階段を昇る時に四つん這いで昇る。その時に気づいたことは進化についてである。横にくねりながら登って行くのがコモドドラゴンに似ている。妙にカッコいいのだ。以上、学問的考察でした。
これにて本日のブログは終了です。

3.11と短歌(1)


湿り雪

 テレビやラジオでは仙台市などで国立大学の2次試験が雪で大変だと報じている。南外付近でも10儖幣紊亮召辰神磴積もった。
 車の上にも湿った重そうな雪が乗っているのがわかる。(わからないか・・・)


3.11からまもなく一年(1)

 3.11からもうすぐ1年になる。震災を振り返ることや震災を忘れないなどの報道がなされている。正直、言って震災後1年経過してどれだけ復興が進んだのか。ニュースで報じているのは被災地の瓦礫処理は5%前後とのこと。まったく取り組みは進んでいないのだ。まだまだ絶望的な状態なのである。
 そんな中で先日(2012.2.20付)の朝日新聞の文化欄に『短歌が受け止めた震災』と題する記事が掲載された。記事のリードは次のようになっている。

『東日本大震災の直後から、全国で無数の短歌が生まれた。震災は、古代からの日本の歌の伝統が、ふだん短歌と無縁な人々の中にも息づいていたことを示した。現代短歌にも影響を及ぼしそうだ』
さらに、記事では次のようにも述べている。
『万葉集以来、短歌には、災害や戦争など社会的事がらを詠む伝統がある。「深刻な体験をなんとか言葉で表現したい、だれかに伝えたいという人々の思いを、いつの時代も短歌は受け止めてきた」と朝日歌壇選者の佐佐木幸綱さんはいう。同選者の永田和宏さんは「事件の記録は歴史書に残るが、庶民の素朴な感情はほとんど残らない。歌はその貴重な資料」と語る。多くの人が衝動的に歌を作った一方で、日ごろ歌を詠み、表現の技術を持つ専門歌人の対応は、即座に詠んだ人、詠まない人に分かれた』

 ボクもこの震災・津波のことや原発のことなどを「あだやおろそかに」下手くそな短歌にすることはできないと思った。百万言を尽くしても言い尽くせないと考えたからである。そのことを記事では次のように表現している。

『6月、秋田市で東北在住者ら若手歌人16人が歌会を開いた。幹事役の宮城県在住の梶原さい子さんは「被災していないのに被災者のように詠んでいいのか。自身のつらさをどこまで詠むか。みんな立ち位置に迷い、注意深くなっていた」と話す』
まったくこのような感じであった。それでも次のような歌もあると言う。
『今月10日、若手歌人の登竜門の一つ、歌壇賞の授賞式があった。受賞した東京都在住の平岡直子さんは27歳。「被災地には何のつながりもないが、地震の後に作った作品すべてが影響を受けていると強く感じる」とスピーチした。その受賞作の冒頭の歌。
   海沿いできみと花火を待ちながら生き延び方について話した   』

 ボクも思いだしてみると直接被災地のことを詠うことはできなかった。でも、次のような短歌をつくっている。

   なにひとつ安否わからぬもどかしさマーマレード作りてしのぐ

 3.11の直前、静岡の友人M松君から毎年恒例の夏ミカンが大量に送られてきた。いつもマーマレードにしてあちこちに分けるのが常だった。そんな中で起きた大震災。
 家人の兄が石巻港のすぐ近くの現場で働いており3日間行方知れずになった。電話もまったくつながらない。3日目になりボクは家人に言った。
「もし、今日連絡がなければダメだと考えるべ」
 そんな時にできることは気持ちを何かに集中するしかない。夏ミカンの皮と実をひたすら剥くそして刻む。焦げ付かないように煮つめる。それだけ。幸い、家人の兄は近くの中学校の屋上に避難しており4日目に連絡が入った。ホッとした。
(字数の関係で次回に続きます)

   何一つ解決能力無い日本復興の日は何時になるやら


我が家のとわちゃん。何でも食べる子だと喜んでいたら最近なかなか食べない。いまからダイエットでもいなだろう。やはり少しずつ変わってきているのだろうなぁ。
と、言うわけで例によってわけのわからないことを書いて本日のブログはこれにて終了です。

アラ汁の思い出


雨降り

 今朝は一変して雨降りであった。特にスリップもしないので結構走りやすい。
 通勤路であるグリーンロードの山間では小さな雪崩が起きて道路に雪が落ちている。前に通過した車が落ちてきた雪を慌ててかわしたと思われるタイヤ痕があった。ビックリしたんだろうなぁ。

 昨年の冬、グリーンロードは地滑りのために封鎖されていたので通っていない。今回、初めて一冬通して通過する道路だ。もしかすれば今後の融雪状況では不測の事態が起こるかもしれない。と、雪の壁を見ながら走り抜けた。

 仕事先に着くと小雪になった。そんな殺風景な景色を1枚。



「アラシープ???」

 1968年(昭和43年)4月。ボクは学校を卒業してすぐに宮城県N農業高校に赴任した。もっとも今は校名変更されて「農業」がとれているようですが・・・。

 宮城県は秋田県と違い公立高校でも「秋田県立」のように「立」がつかない。「宮城県~~高校」となっている。赴任する時に本当に公立高校なんだろうかなぁと少々不安に思いながら向かった。

 その高校で部活の顧問として最初に与えられたのが陸上部の副顧問。ボクは我が村で「ベゴにブレーキ人間」と言われるくらいの鈍足人である。それが陸上部の顧問になるとは・・・。と、ボクは考えたのだが仕事では引き受けるしかありません。ところで「ベゴにブレーキ」をあらためて説明する必要はありませんが一応。「のたのた歩く牛にブレーキがかかっているような鈍足」ってことです。ウーム、見事な表現ですねぇ。さすが南外。

 当時、その高校は毎年のように全国駅伝大会に出場する有力校だった。その陸上部を率いる顧問の先生も豪傑であり、ボクもいろいろなことを教わった。印象に残っているのは「アラシープ」である。

 初の勤務が始まってすぐに春の合宿が始まった。その頃は顧問が食事の準備をする。自家用車なんて無い時代。もちろんスーパーなんかも無い。買い出しは学校の近くの雑貨屋や魚屋に自転車か徒歩ででかける。 監督はなじみの魚屋でマグロなどの高級魚から落ちた骨などのいわゆる「アラ」を安い値段で買ってくる。もしかすれば貰ってきたのかもしれない。
 合宿所に帰ってから、それらの魚のアラと野菜をブツブツと刻んで大きなナベに放り込み味噌味で煮込む。

「ハハハハ。これが一番ウメーんだ」
「ハーッ」
「アラ汁だ」
「ホーッ」
「アラスープと言うんだ」
「へーッ?」
「いやいや、アラシープだ」

と、わざわざ訛って味見をする。それからアラ汁は「アラシープ」になった。
 さらに監督は昼食前だったが調味料として購入していた日本酒の一升瓶から茶飲み茶碗にコクコクと酒を注ぎボクに「ほれっ」とだす。
 そして自分の茶碗にも一杯注ぎ「グイッ」と飲み干す。黙って飲まないのは失礼に当たるのでボクも「いただきます」と飲み干す。
 この禁断の味がなかなかに悩ましい。まだ、運転免許証の無い時代の話である。

 宮城県で初めて食べた「アラシープ」が抜群に美味かった。骨の間に付いてる肉をせせり、頭の肉を取り出し目玉を突ついてひたすら自然の恵みを口中に運ぶ。至極の味であった。
 アラ汁。なかなか奧の深い地域色のあふれるご馳走ですね。

    アラ汁の頭と骨と目玉など残らず食べてフフフと笑う



我が家のとわちゃん。江ノ島水族館で撮影したイルカショーのビデオが大好きだ。5分ほどの映像だが一日に十回以上見ているようだ。不思議な動きが好きなんだろうなぁとジジバカは考えている。ちょっと渋い顔をしたとわちゃんの顔です。
これにて本日のブログは終了です。

もの負けしない、とわ


この冬一番

 昨夜パラパラと雨が降った。それが今朝少し冷え込んだので路面が薄い氷になった。その氷の上に雨が降ったのだからたまらない。車が滑ること滑ること・・・・。
 幸い事故も無く職場に着いたのだが運転するのは、この冬一番の怖さだった。午後からは間断なく雨が降り続き窓から外を見ると何となく春っぽく霞んでいる。

   こんな道お茶の子さいさい走れます油断大敵雪解け凍り


お土産

 我が社のK君。ハワイに旅行。何の旅行かは書かないが今頃ハワイに行くのは決まっているでしょう・・・。ハイ。
 お土産にいただいたボールペン。模様が100ドル札。手帳の間に挟み込んでありがたく使うことにしよう。


ちょっと気になること

 仙台育英の陸上部(駅伝)員10人が愛知の豊川高校に集団で転校するとのこと。3.11の震災で練習場所の確保ができないからと言うのが表向きの理由のようだ。 だが、本当のところは違うらしい。
 このところ全国駅伝大会で上位に食い込めなくなったために育英の監督が辞めることになった。また、育英では特待生の扱いができなくなったことも理由の一つと報じている。さらに上位入賞すると有名大学に無条件で入学できる。それができなくなってしまう。それじゃあ勝てるチームに転校しよう。こんな構図らしい。
 転校生に宮城県出身者がいないとのこと。これって何かおかしいなぁ。震災に名を借りた体のいい「美味いとこどり」じゃん。


サッカーU-23

 昨夜、午前0時頃までサッカーU-23アジア予選日本対マレーシアをテレビ観戦。前の試合でシリアに引き分けられて総得点で2位になった日本の試合ぶりが注目された。とにかく大量得点することとムダな失点を防ぐことが求められた。
 失点はなかった。得点は4点。でも、5~6点は取れた試合だったなぁとボクの素人目から見て感じられた。
 日本の試合が終わった後におこなわれたシリア対バーレンの試合でシリアが負けてしまったので日本は単独首位になった。だが、最終試合で息を吹き返したバーレンと対戦する日本は結構苦戦するのでは無いかと思う。いずれにしても楽しみである。



我が家のとわちゃん。秋田弁で言う「もの負げシネー」のである。転んだり、オモチャなどに指を少し挟んで少し痛い目にあってもウワーンとひと泣きするとすぐに泣きやんでくれる。そして、少し慎重になって次の行動を起こす。ウーム学習効果じゃのうと可哀想だなぁと思いながらジジバカはニコニコしている。
昨日、とわちゃんのお母さんの実家から50僂曚匹凌臣が二匹持ち込まれた。一昨夜、親戚の人が真鱈釣りに行ったお裾分けである。おそらく産卵などを終えた鱈なのだろう。腹はあまりふくれていない。切れない出刃包丁でさばいた。フライ、アラ汁、味噌焼きなどで一杯やりました。美味い美味い。
今日、進路指導の講演会があった。講演者の方が、ある大学のことについて「とても面白い話」を熱弁したのが印象的だった。「まともな話」だったのが良かったのです。詳しいことは書きませんが・・・。
これにて本日のブログは日常のメモを書いて生存証明です。

ひろ・ひろ・ひろ


冷え込んだ朝

 朝、車載の温度計はマイナス10℃。残念ながら昨日はそれほど暖かくならなかったので雪の表面は溶けていないために固雪にはならなかった。深い雪の中におそるおそるを踏み込んだらズボリと長靴は沈んだ。まだまだ本格的な固雪ではない。
 でも、冷え込んでいるのは確かである。写真は出発前の車の窓に結晶した氷である。さすがにH2Oである。六角形の集合体が見える感じがする。

 勤務先に向かう山道にはノウサギやタヌキの足跡が雪の上についていた。新雪が降らないから見えるフットプリントですね。動物の足跡が見えるようになると春が近くなる。

     ノウサギとタヌキとキジの足跡は春の蠢き雪上の印


我もHiroなり

 我が家のトイレには本店の社長からいただいたカレンダーが飾られていて一年中「野球だゼ」とメッセージを送ってくれる。
 2月は4人のプロ野球選手の写真が飾られている。左からソフトバンク・小久保裕紀、読売・小笠原道大、阪神・新井貴浩、中日・和田一浩だ。4人とも名前の中に「ひろ」の読み方が入っている。日本人はなんと言っても「ひろ」なのだ。

 ボクの名前にも「ひろ」が入っている。.このブログのタイトルになっている「Hi-Rock」は20年以上前からボクの愛称?です。
 自分の名前と自称ロックンローラーであること、そしてマジシャンのマリックを合成して無理矢理こじつただけなんですけれどね。
 今日、2.22は若き友人の「ひろ」君の誕生日でもある。元気かな?

 毎朝、届く「日刊スポーツ紙」の一面も野球の話題が多くなってきた。いよいよ野球シーズン間近を思わせる。と、トイレのカレンダーを見ながら思ったわけです。


我が家のとわちゃん。最近は人の話すことが理解できるようである。「アイス食べる?」と訊くとコクコクとうなずきながら冷蔵庫のある方向に歩き出す。「外に行く?」と問いかけるとコクコクとうなずき長靴をはこうとする。抱っこしている時に自分が行きたい方向を見てコクコクとうなずき、そっちに行けと足で舵をとろうとする。うなずきシローならずうなずきとわちゃんである。周りの人の話すことを吸収できるようになっているんだろうなぁ。
と、言うわけで本日のブログはこれにて終了です。

保護者会長の逝去


春っぽい雪が

 今朝は重い雪が10僂曚廟僂發辰拭車の走りにくさと言ったらこれ以上無い。そんな悪路でもボクの車を追い越してゆくバカモノがいる。まったく命知らずな連中だ。
 曇り空を見上げたら三羽の鳥が北に向かって飛んで行く。ハクチョウでもカラスでもトビでも無い。カモ類だと思う。少しずつ春が近づく感じがする。空気の匂いも春っぽくなった。油断しちゃいけないですけどね。


佐々木公男さん

 今から16年程前である。南外中学校の軟式野球部は南外村始まって以来の秋田県大会出場を勝ち取った。
 県大会は60回以上を数えているのだが南外地区からは一度も出場したことがなかった。大曲仙北地区の中学校野球のレベルは高く全県大会で優勝したチームが何校もある。全県大会で勝ち抜くよりも大曲仙北で勝ち抜くのが難しいと言われていた。その壁を初めて越えたのがその時だった。

 その時の野球部父母会の会長が佐々木公男さんだった。ボクもその時の父母会の一員である。会長の佐々木さんのモットーは「部活動は顧問の監督に任せる。だから父兄は絶対に指導内容には口を出さない。ただ、お金や支援のための協力は全面的に実行する」だった。そのことも子どもたちの活躍に大きな力になったと思う。

 母の葬儀が終わって鎌倉から帰ってきたら、我が家の電話がなった。当時の事務局長であるSさんからである。

「昨日、公男さんが亡くなった」
「エッ!?」
「保護者会だったメンバーで花輪を挙げたいので」
「よろしくお願いします」

 1年半程前から肺ガンで治療していたとのこと。しばらく会っていなかったので病気のことも全く知らなかった。

 佐々木さんの息子さんはボクが勤務していた高校に入り野球部に入部。ボクはその当時野球部の顧問をしていたので佐々木さんには保護者会会長を引き受けてもらった。彼が会長の時に野球部は初の秋季東北大会出場を果たした。
 その頃の野球部は冬休み中に遠征費のためにアルバイトを許可していた。だが、ボクら顧問は休み中のアルバイトを止めて練習させてもらえるように提案した。そのことを保護者会としてアルバイトを止めることでまとめてくれたことも印象に残っている。そのアルバイトをしないで練習する伝統は古巣の高校では15年以上継続しているはずである。

 佐々木さんの葬儀が今日だった。享年61歳。あまりにも若い死である。劇的な人生を歩んだ人だったと思う。お世話になった。合掌。

   あまりにも若い死ですよ公男さん皆が認めるその足跡を



我が家のとわちゃん。最近、懸垂力がとても強くなった。家庭用のすべり台の横に付いているジャングルジムを両腕を使って一段エイッと上がる。たいしたもんだ。
と、言うわけで本日はこれにてブログ終了です。

光の春


早春賦

 今日、日中は青空が広がった。窓から射し込む太陽の光に力がよみがえってきている。ぽかぽかと温かいというような表現ではなくボクの頭に突き刺さるように熱さ差し込む。

「オーッこれはいいなぁ」

でも、外は寒い。その気になって窓を開けたりすると氷点下近くの冷たい空気がどーっと室内に流れ込んでくる。
 二月も後半になって夕方の日の入り時間が午後5時過ぎになっている。帰宅時間の途中でようやく薄暮の状態になりライトの点灯をする。朝方も午前6時になれば明るくなってくる。「光」がどんどんと北国に帰って来ているのが実感できる。

 以前もブログに書いた気がするのだが、すでに85歳を超えられた気象予報士の草分けとも言える倉嶋厚さんが言う「光の春」がめぐってきたのだ。そしていつも『早春賦』を思いだす。いい歌ですねぇ。

早春賦
  作詞:作曲:吉丸 一昌・中田 章
1.春は名のみの 風の寒さや
  谷の鶯 歌は思えど
  時にあらずと 声も立てず
  時にあらずと 声も立てず

 まだ、我が家の付近ではウグイスの声も姿も聴くことも見ることもできない。だが体の大きなカケスは英語の名前そのままに「ジェイ、ジェイ」と鳴きながらフワリフワリと杉林の中に消えてゆく。カケスたちも春の近いことを感じているのだろう。
 写真は久しぶりに顔を見せてくれた青空を窓から一枚撮影。

    窓越しの太陽 力を取りもどしカケスもふわり光の春に


我が家のとわちゃん。海苔で包んだおにぎりが大好きである。ボダッコの入った小さめのおりぎりを1個たいらげてしまう。その分、UNCHIの量も多い。どんどん成長してくれ。
1週間ぶりに仕事に出たのだがドキドキしたなぁ。明日からは普通に慣れるのかもしれない。と、言うわけで本日のブログはこれにて終了です。
アクセスカウンター
リンク
カレンダー
01 | 2012/02 | 03
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 - - -
最新記事
最新コメント
プロフィール

Hi-Rock

Author:Hi-Rock
FC2ブログへようこそ!

月別アーカイブ
検索フォーム
QRコード
QR