菅江真澄と勝軍山
寒い冬の原因は?
連日、水道菅の凍結に気をつかっている。相変わらず冬の寒さが続く。気象庁が原因をまとめた。
『気象庁の異常気象分析検討会は27日、今冬の厳しい寒さと大雪の原因について見解をまとめた。
(1)ラニーニャ現象などで偏西風が蛇行し、寒気が南下しやすかった
(2)日本の西で冷たいシベリア高気圧が強まって寒気をもたらし、西高東低の冬型の気圧配置も強まった―などを原因に挙げた。
シベリア高気圧が強まったのは、地球温暖化の影響でロシア北西部・バレンツ海の海氷が少なかったことも一因と考えられるという』
今日も真冬日。ウーム。もうまだまだの辛抱じゃのう。
勝軍山について
26日(日)午後から南外村公民館で『地域民俗文化に関する勉強会』が開催された。案内をいただき義理が半分、興味半分で出かけた。
『菅江真澄「雪の出羽路」にみられる勝軍山について』と題して大森町の阿部孝雄さんの講演会がおこなわれた。勝軍山は南外村のHPに少し記入している。
http://www.city.daisen.akita.jp/content/nangai/html/03_history/history.html
また、菅江真澄をウィキペディアで調べたら次のように書いてある。
『菅江真澄とは江戸時代後期の旅行家、博物学者である。旅先の各地で、土地の民族習慣、風土、宗教から自作の詩歌まで数多くの記録を残す。今日で言う文化人類学者のフィールドノート(野帳)のようなものであるが、特にそれに付された彼のスケッチ画が注目に値する』
会場には50名近くの方が参加してなかなか熱の帯びた講演会だった。これはこれは歴史好きや地域のことについて知りたい人が多いなぁと感心した。
南外村と大森町の境にある勝軍山には何度か登っている。大会前に勝利祈願で野球少年たちとともに山に登り参詣したのである。その時に頭の真上から聞こえてきた「ツツドリ」の「ポンポン」という鳴き声が今も印象に残っている。オーッと例によって話があちこちに飛んでしまった・・・。
この講演会で少し賢くなったことを記しておこう。
まず、勝軍山は山岳信仰の一つであった。南外(外小友)と大森の境にあり、どちらの地域からもあたらずさわらずの扱いを受けて不運な山かもしれないことを知った。
資料には『旧神官守屋氏宅、嘉永六年(1853)火災にあい同社の宝物をあげて烏有に帰せしは誠に惜しむべきことなり』
これを読んだ時「烏有に帰す」の意味がわからなかった。最初は「鳥有」と「ちょうゆう」と読んだ。だが、「鳥(とり)」ではなく「烏(からす)」だった。まったくボクは学がありません。
「烏有に帰す(うゆうにきす)」の意味は「何もかもまったくなくなってしまうこと。とくに、火事にあって全焼し、何もかも失ってしまうこと」なそうだ。ウーム勉強になったぞ。
つまり、神主さんの家が焼けて何もかもなくなっちゃった。その中には義経??!!の置いていった扇も燃えてしまったとも言われている。すごいですねぇ。義経は牛若丸ですよ牛若丸。本当かねぇと思った。
真偽はともかくとして火災によって貴重な資料は消失してしまい菅江真澄の書いたスケッチ(写真)が当時を偲ばせる貴重な資料となっている。
さらに、専門家の書いている本を何でもかんでも信じてはいかんことも当然のことですが利口になった。ある専門家の書いた本に菅江真澄の亡くなった場所は角館町の白岩と書かれていた。ところが、阿部さんたちが調べたら角館町の岩瀬だったと言うことが判明したとのこと。「違うんじゃないの」と、抗議したが専門家はなかなか訂正しないと呆れ顔だった。新しい発見があるからこそ歴史はおもしろいのかもしれない。
もっとも名古屋市長の河村氏が「南京大虐殺」がなかったと言うのは新しい発見でもなんでもなく歴史認識がナンセンスなだけだと思うだが・・・。
またまた話が飛んだが地域の歴史や民族文化に少しでも触れることができた。なかなかに楽しい2時間だった。
そうそう、50年以上前のこと。外小友小学校では大運動会が開かれた。何しろ全校生徒数が400人を超えていた時代だ。赤軍、白軍、緑軍など学年を越えてグループ分けして色別対抗戦がおこなわれた。その時に各色のチームの応援歌があった。出だしの歌詞は次の通り。
♪勝軍山下に鍛えたる
○(色の名前が入る)の健児の勢いを
勝軍山は外小友村の水源地とも言える誇り高い山であったことは確かである。何だか歴史家みたいな口っぷりになってしまった。ウオッホホホホ。
我が家のとわちゃん。最近、家人(ババである)に文句を言う。何を言ってるのかわからないが「ベチャベチャ・・・」と叫んでいる。叱られていると思っているのか反抗しているのだろう。いいぞ、とわちゃん。ボクに替わってやっつけてくれ。
これにて本日のブログは終了です。
チョコレートこんなに美味いものはないカカオとろけたあの時の味