下宿を探して
盛岡へ
オッカアの通っている病院が盛岡。
コロナ禍で県境を越えないようにとの話があるが薬もなくなったとのことだし1ヶ月以上通院していないので診断を受ける必要があるらしい。電車で行くのは心配だということで車で送迎することに。
盛岡までは100㎞。
駅前に車を駐めてオッカアは病院へ。ボクはやることがないので駅の待合室に。行こうと思ったが人の中に入るのも嫌だなぁ。そこで、50年ぶりに下宿のあった場所を見に行くことにした。
あの頃は盛岡の駅裏だったので歩いて10分ぐらいのはず。そこでトボトボと駅前から夕顔瀬町の方に鉄道沿いに歩き始めた。
50年前は駅裏に行くためには「あかずの踏切」を渡っていたが跨線橋ができていた。これを渡ればいいのかなぁと思い、息を切らせながら登って鉄道を渡る。渡りきって駅裏の空を見るとこんな感じ。
蒸し暑い。もうすでに汗がポトポトと流れ落ちそう。
ところがここからが苦難の道へ・・・・。下宿があった場所がわからない。ヤバイッ。あちこちの路地を歩きながら探してみたがみつからない。
確か太田橋の近くだったなぁと思いそこまで行って戻ってもわからない。何しろ町の名前が違っているのだ。「中川町」なんて名前はない。みつからない。
ほとんどすれ違う人もいないので一人で30℃近い町中をウロウロとする。すると城西中学が見つかった。アレッこの中学校は確かに昔からあったぞぁ。
じゃあ下宿の方向は向こうかもしれない。と、当たりをつけて歩いてみる。すると見なれた小路が見つかった。周囲の建物はまったく違うが小路だけは昔のまま(のような気がした)そこで発見したのであります。
街路のポールにからまった朝顔の向こうにあったのです。ここまで都合1時間。で、古い表札を見たら昔の下宿のご主人の名前(苗字だけ)が書かれていた。同じ下宿のカジハラ君の奥さんの家もすっかり姿が変わっていた。
それはともかく見つかってエガッタァと思い盛岡駅に帰ってきた。
酒タバコ麻雀ばかりで四年間下宿はボクの揺りかごだった
「中川町」なんて名前はもう無くて「城西町」だとシャラクセーぜ
この小路の向こうは宮本の住む部屋があったはずだが何もなかった
三陸の訛りのきついおばさんの通訳いつも秋田のボクなり
小室加賀谷伊藤梶原京極山家まだいたなぁ皆ここにいた
盛岡にたくさん好きな人たちがいたけどみんな忘れちまった
「こんにちは」そんな勇気はありません表札を見て大満足さ
そんなことをつぶやきながら1時間の散歩を終えて南外に帰った。
スガーリンってやはり変だ。変な人間は好きだがスガーリンは嫌いだ。何しろ今のCOVID-19の状況で『明かりは見えている』などと喋ったのだ。
暗闇しかない。せめて国会を開いて、なんで明かりが見えたのか説明してみろ。
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テリトリー悠然と飛ぶオニヤンマ往路は睨み復路は笑顔