卓球
気温低けれど
今日は25℃前後。気温は低かったが雨も降ったので湿度は高かった。結構、不快な状態だった。夕方には雨が上がり山の端には低い雲が空をめざしていた。
クラスマッチ
わが職場では二日間クラスマッチが開催されている。その中の種目に卓球がある。職員チームの一員にボクの名前もあった。なるほどボクの実力をわかっていたのかフフフフ。
卓球と言えば塩竃の姪である。今は徳島に嫁いでいて大河クンのお母さんだ。姪は高校当時に卓球の団体で日本一になったことがある。塩竃の実家のすぐ近くに卓球会館があり幼児の頃からラケットを握っていた卓球少女だった。
彼女がまだ小さい頃に一度、卓球会館で対戦をしたことがある。「子どもを相手に大人が」と思ったが何だか軽くあしらわれたような記憶がある。それでボクの卓球の実力はグーンとアップした。わけがないか・・・・。
と、言うわけでラケット何年ぶりかで握った。ところがボールを打っているうちに妙に右側の背筋が痛くなる。とうとう、右手に少し重い物体を持って目の前に置こうとするとズキッと鋭い痛みが走る。何と言うことでしょう。単なる年寄りの老化現象だ。
それでも職員チームのシングルスに2試合出場。子どもたちに勝って何がおもしろいのか。負けてやれよ。と陰口をたたかれそうですね。
自慢げに書きますが、いや自慢ですが2試合ともボクは2-1で勝ったのである。すごいですねぇ。もっとも卓球とは言えないかもしれない。その昔、温泉の広間にあったピンポンをやっている感じだろう。でも、久しぶりに卓球(もどき)をやった。楽しかったなぁ。
卓球のラケット握り若者と対戦するは若返り法?
乱雑またよし
最近、草森紳一さんの著書『本の読み方 河出書房新社』を読んだ。草森さんは2008年に亡くなられた人である。読書家で有名な彼の蔵書などを整理しようとする活動が盛んだ。500ページを超える『草森伸一がいた~友人と仕事仲間たちによる回想集~』も発行されている。これは手元にあるのだがまだ読んでいない。
さて、先ほどの『本の読み方』は読書についてのエッセー集である。読書法を書いているわけでもない、ただ本を読んで読んで読むという内容である。なんと下手な感想文かと恐縮だが。
この中に「そのとおり!」と考えさせられる文章があった。エッセーのタイトルは『墓場の書斎に閉じこもる』である。毛沢東の読書法について書いている。毛沢東はあの本この本と手をつけて読みちらし撒きちらしてベッドの上は乱雑きわまりなくなるという。そこからの続きです。
『つまり、シーツは上は本で散乱状態になる。五分の四まで本で埋まる。その時三分の二どころかからだを横たえるわずかの余地しか残らない。おそらくでたらめに散らかしているのではなく、いったん本を置き、他の本に移る時、空白を求めながらそうしている。次ぎに必要になった時、迷わぬようにである。
本人にとっては、記憶の秩序に従った行動である。人の目には、どのように映じようとも、けっして乱雑ではない。これを見て、なんと汚いのか、おいたわしいなどと整頓してしまうのは、一種の暴力である。毛沢東の頭の中に手をつっこみ、その脳みそをひっかきまわすようなものである。自己流に整理整頓されている宇宙がガタガタと崩壊してしまう。
とはいえ、この乱雑な秩序にも限界がある。必ず自分でもわからなくなる時がやってくる。その時は自分の手で積み直しをやる。それも束の間の整頓で、あっという間に元の木阿弥となる』
この状態がとてもよくわかる。整理整頓をしようと思い古い雑誌などを「自炊」という方法でデータ化した。それはそれでいいのだが、どうしてもバラバラにできない雑誌や本がある。だから絶対にすっきりとした状態にはならない。
もしも、家人が片付けたら永久にボクの物体や本は闇の中に消えてゆく。毛沢東の気持ちがよくわかる。別に彼に思想に共鳴しているのではありません。本とのつきあい方に共感をおぼえるのである。
と、本はいろいろなことを教えてくれます。乱雑また良しである。
今日、本店の社長と電話。お孫さんが生まれたとのこと。初孫である。うれしそうだったなぁ。おめでとう。
「じいさんになりました」との友の声電話の向こう命つながり
これにて本日のブログは終了です。