大相撲の再開を待ちたい
油断がなりません
三日連続で晴れたと思ったら今朝から荒れ模様。向こう側が見えなくなるくらいの降雪になった。
三寒四温。夢のまた夢。できれば六寒三温でいいので温かい、いや温かくなくても雪の降らない日が欲しい。
写真は雪が猛烈な勢いで降り始めた時に1枚撮影。
アーまただ三寒四温は夢の中向こうの見えぬ雪は絨毯
相撲について(最後です)
大相撲についてはこの項を書いたら本場所が再開されるまではもうブログには書きません。今朝(2011.2.7付)の魁新報にスポーツライターの玉木正之さんが『「相撲とは何か」熟考を』としてコラムを書いている。少々長いが引用したい。
『大相撲は「神事」「興業」「格闘技(スポーツ)」の三つの要素から成り立っているイベントである。明治の断髪令の唯一の例外と言える力士のまげは、「神事」をつかさどる力人の象徴であり、横綱の土俵入りは大地を四股で固め五穀豊穣を祈る神事そのものと言える。また大相撲が相撲甚句や触れ太鼓などの芸能的要素を伴い、力士が休場することなく本場所を務めるようにしているのは「興業」としてファンの期待に応えることにほかならない。過去には時としてスポーツ的要素が強くなりすぎ、けが人だらけで休場する力士が続出し、ファンをガッカリさせた時期もあった。逆に興行的要素が強くなりすぎ、力士がけがを極度に怖れたことから、無気力相撲が目に見えて増加し、かつて「土俵の鬼」と呼ばれた元横綱が力士たちに「渇」を加えたこともあった』
これら三つの要素が修正しながらさらにバランスをとりながら歴史を重ねてきたのが大相撲である。これが一部の金のためや地位保全のための「互助会的八百長取り引き」のように堕落し「日本書紀」以来の相撲の歴史が傷つけられたのではたまらない。玉木さんは述べている。さらに
『誤解を恐れずに書くなら、7勝7敗で千秋楽の給金相撲を迎えた霧市の勝率が高いのも、家族が見学に来た時の幕下以下の若手力士の勝率が高くなるのも、昔から「人情相撲」として角界や好角家の間では容認されていたものだった。そのような「阿吽の呼吸」も含めて大相撲だった。それが今回の「情けない事件」をきっかけに、「八百長排除」の掛け声とともに、歌舞伎や落語にも描かれる「人情相撲」までが否定されれば、それはやはり日本の大相撲とは呼べない無粋で味気のない、ただの格闘技に堕してしまうだろう。もちろん「八百長」を是認するわけではない。しかし、大相撲は近代オリンピック競技のようなスポーツではない』
そして、玉木さんは大相撲を宗教法人として再スタートしたらどうかなど提言している。そして、結論として次のように結んでいる。
『日本と日本人と日本文化にとって相撲とは「何か?」「どうあるべきか?」を徹底的に考え直す必要があるだろう』
玉木さんの意見に大賛成である。相撲の本質はガチンコ勝負ばかりではない精神的な豊かさを感じさせるものがあるとボクは思っている。だから魅力があるし大好きである。いずれどのように再生するのか。その時を待ちたい。
以上、大相撲八百長問題はこれにてしばらくボクの中でチョンである。そうそう、今週号の週刊ポストと週刊現代は購入しますけれど・・・。
雪が降ったと言っても少しずつ気温は上昇している。夕方の日の入り時間もだいぶ遅くなってきた。もう少しの辛抱です。これにて本日はブログ終了。