教育も破壊してゆく
今日もぐずぐずの天気
台風10号の余波だと思うが降ったり止んだり。気温は30℃をいったりきたりで蒸し暑い。写真を撮るものもないので近くにある菊のはなのようなものを一枚。

国語教育の危機
今朝(2019.8.17付)の朝日新聞天声人語に高校の国語教育が新指導要領で大きな変化が出てくる可能性のことを書いている。その変化は悪い方向になるという危惧する内容だった。
新指導要領による試験の例では行政のガイドラインや駐車場の契約書などの「実用文」が試験の例として出されているとのこと。天声人語氏がこの試験問題を見ると「これが国語か?」と思える内容だという。
歌人の元高校国語教師の俵万智さんは「実用的な文章が読める力は必要だけど、そんなものを国語の教材としてえんえんと教えるとは」と述べているという。俵さんは続けて「言葉や表現の豊かさに、あえてふれさせない意地悪を、なぜするのだろう」ともいう。
さらに俵さんは「短歌は31文字だが百字分でも千字分でも伝えられる。一方で百字で百字分伝えるのが契約書。それを国語で教えるのは「言葉を、現実を留めるピンとしか見ていない」と指摘している。
ここまで読んで、アベシンゾーたちは教育の破壊(ばかりではなく日本を融かすような破壊も含めて)を次々におこなってきた。より、具体的に教育分野の破壊に踏み込んできたと思った。簡単に言えば彼らは勉強なんかしなくてもいいよ。と、言っているに等しいことをやろうとしている。つまり、国民は余計なことは知らなくてもいいよ。との意思表示に過ぎない。国民が普通に疑問を疑問として表現するようになればアベシンゾーたちは困るからだ。
ついでに書いておけば小学校から英語を学ばせるなんてことは余計なこと、つまり無駄だとボクは考えている。これで勉強嫌いの子供たちが山ほど増えることだろう。それを狙っているとしか思えない。けっして英語教育を否定しているわけではない。英語は必要であることは間違いない。だが、学習する「時期と必要さ」が問題となるのだ。
天声人語の結論は「教科書で出会わなかったら一生出会えない。そんな文学がある」と作家の小川洋子さんが語っていることを紹介。
そして文学は「広い世界へ行くためのドア」になるのだと、自分の狭い世界、狭い価値観から解放されて。と、結んでいる。
わかったかアベシンゾーたちよ。もっと広い世界観と価値観を持つべきなのだ。彼は「云々」を「でんでん」と読むくらいだから現代国語なんかは必要ないと考えているのか。と、ついつい勘ぐってもいる。
で、私事になりますが「教科書で出会わなければ一生出会えなかったかもしれない」短歌を思い出した。
それは先日発行された『かりん秋田 77号』という冊子にボクは「かりん」主宰者馬場あき子さんの一首鑑賞を二百字で書くことになった。
馬場さんの短歌は山ほどあるなぁと思い何を選ぼうと思案した。そのときに高校一年生の現代国語の教科書を開いたらなんと言うことでしょう。短歌の部門に馬場さんの短歌が掲載されている。「これだっ」と思い早速引用して二百字を完成。
我田引水ですがその時に書いた二百字を書いておきます。
『 むくむくと春の綿雲ふえてゆき桃咲き梅散り椿狂へり 馬場あき子
高1の大修館書店「新編国語総合改訂版」に掲載されている一首である。春の綿雲の躍動感がまず詠われる。続いて地上では咲くものがあり散るものがあり狂い落ちるものありと花の有為転変とも言うべき世界が広がる。「椿狂へり」にたどり着いた時にはゾクッとした。そして、生きることの意味とは何かと考える。このような深い世界観の短歌を教わる高校生っていいなぁ』
こんな内容である。二百字だけのスペースだからこれだけ。もっともっと書き込めば書くことが出来る。つまり、俵万智さんがいう31文字は百字でも千字でも思いを伝えたり書いたりすることが出来る。
教科書で出逢わなければ一生会うことがなかった可能性が高い一首である。
アベシンゾーよ早くやめてくれ。
本日のブログはこれにて終了です。
実はその日々の課題の筋トレを最近サボってグータラなんです
台風10号の余波だと思うが降ったり止んだり。気温は30℃をいったりきたりで蒸し暑い。写真を撮るものもないので近くにある菊のはなのようなものを一枚。

国語教育の危機
今朝(2019.8.17付)の朝日新聞天声人語に高校の国語教育が新指導要領で大きな変化が出てくる可能性のことを書いている。その変化は悪い方向になるという危惧する内容だった。
新指導要領による試験の例では行政のガイドラインや駐車場の契約書などの「実用文」が試験の例として出されているとのこと。天声人語氏がこの試験問題を見ると「これが国語か?」と思える内容だという。
歌人の元高校国語教師の俵万智さんは「実用的な文章が読める力は必要だけど、そんなものを国語の教材としてえんえんと教えるとは」と述べているという。俵さんは続けて「言葉や表現の豊かさに、あえてふれさせない意地悪を、なぜするのだろう」ともいう。
さらに俵さんは「短歌は31文字だが百字分でも千字分でも伝えられる。一方で百字で百字分伝えるのが契約書。それを国語で教えるのは「言葉を、現実を留めるピンとしか見ていない」と指摘している。
ここまで読んで、アベシンゾーたちは教育の破壊(ばかりではなく日本を融かすような破壊も含めて)を次々におこなってきた。より、具体的に教育分野の破壊に踏み込んできたと思った。簡単に言えば彼らは勉強なんかしなくてもいいよ。と、言っているに等しいことをやろうとしている。つまり、国民は余計なことは知らなくてもいいよ。との意思表示に過ぎない。国民が普通に疑問を疑問として表現するようになればアベシンゾーたちは困るからだ。
ついでに書いておけば小学校から英語を学ばせるなんてことは余計なこと、つまり無駄だとボクは考えている。これで勉強嫌いの子供たちが山ほど増えることだろう。それを狙っているとしか思えない。けっして英語教育を否定しているわけではない。英語は必要であることは間違いない。だが、学習する「時期と必要さ」が問題となるのだ。
天声人語の結論は「教科書で出会わなかったら一生出会えない。そんな文学がある」と作家の小川洋子さんが語っていることを紹介。
そして文学は「広い世界へ行くためのドア」になるのだと、自分の狭い世界、狭い価値観から解放されて。と、結んでいる。
わかったかアベシンゾーたちよ。もっと広い世界観と価値観を持つべきなのだ。彼は「云々」を「でんでん」と読むくらいだから現代国語なんかは必要ないと考えているのか。と、ついつい勘ぐってもいる。
で、私事になりますが「教科書で出会わなければ一生出会えなかったかもしれない」短歌を思い出した。
それは先日発行された『かりん秋田 77号』という冊子にボクは「かりん」主宰者馬場あき子さんの一首鑑賞を二百字で書くことになった。
馬場さんの短歌は山ほどあるなぁと思い何を選ぼうと思案した。そのときに高校一年生の現代国語の教科書を開いたらなんと言うことでしょう。短歌の部門に馬場さんの短歌が掲載されている。「これだっ」と思い早速引用して二百字を完成。
我田引水ですがその時に書いた二百字を書いておきます。
『 むくむくと春の綿雲ふえてゆき桃咲き梅散り椿狂へり 馬場あき子
高1の大修館書店「新編国語総合改訂版」に掲載されている一首である。春の綿雲の躍動感がまず詠われる。続いて地上では咲くものがあり散るものがあり狂い落ちるものありと花の有為転変とも言うべき世界が広がる。「椿狂へり」にたどり着いた時にはゾクッとした。そして、生きることの意味とは何かと考える。このような深い世界観の短歌を教わる高校生っていいなぁ』
こんな内容である。二百字だけのスペースだからこれだけ。もっともっと書き込めば書くことが出来る。つまり、俵万智さんがいう31文字は百字でも千字でも思いを伝えたり書いたりすることが出来る。
教科書で出逢わなければ一生会うことがなかった可能性が高い一首である。
アベシンゾーよ早くやめてくれ。
本日のブログはこれにて終了です。
実はその日々の課題の筋トレを最近サボってグータラなんです