美しい言葉
今日も暑い。外小友郵便局近くのフヨウである。
暑さでげんなりしているようだが、フヨウも終わりのシーズンかもしれない。
ウクレレ教室
昨夜、お盆で遊びに来ていたとわちゃんとウクレレ教室をやった。
C、Am、F、Gの抑え方を教えたら結構できるようになった。あいみょんの歌などを何となく弾けるようになった。子どもは覚えるのが早い。
今日のアマチュア無線
10MHzバンドニュー。まずはCT1BZGポルトガル。これまでできていなかった。
そして、もう1つのバンドニューHB0WRリヒテンシュタイン。
ただ、コンファームできるかは未定。10MHzで100円はすぐそこにあるのだが・・・。
『今日の短歌 WEB版』
敷島の やまと心を 人問はば 朝日に にほふ 山桜花
本居宣長『自画賛1790年』
朝日新聞文化欄『星の林に ピーター・J・マクミラン詩歌翻遊(2023.8.13付)』に紹介されていた。
ピーターさんはこの歌の現代訳を次のように書いている。
『大和心とは何かと人が尋ねるならば、それは朝日に照らされて美しく映える山桜の花だと答えよう』
ところがこの歌の解釈が時代とともに次のように変質してゆく。
『尊皇攘夷運動が盛んになった幕末ごろから、この歌の「山桜花」を「散る桜」と解し、潔く散ることこそ日本固有の精神だとする解釈が現れ、浸透していく。戦時中の小学校の国語教科書にはこの歌が記載され、学校教育を通じてその愛国精神が強調された。太平洋戦争末期、海軍の神風特別攻撃隊には、「敷島隊」「大和隊」「朝日隊」「山桜隊」という、この歌から取られた名の部隊があった。自ら戦争で命を散らせることと、この歌とが重ねられていたのだ』
さらにピーターさんはこの解釈に驚いたとして次のように述べる。
『この歌にも日本にも「散る桜」のイメージがなかった私は驚いた。この美しい歌が戦争に利用されたことを悲しく思った。文学が戦争によりイメージをゆがめられた例は他にもある。惑わされず、客観的に鑑賞するようにしたいものだ』
最後に
『外国人である私は、日本人を桜のようだと思っている。しかし、それは潔く散る桜ではない。風に揺れる満開の桜の、清らかな品格ある姿こそふさわしいはずだ』
ボクもそう感じる。
短歌(ばかりではないが)は前の戦争で戦意高揚のために利用された歴史がある。その中で斎藤茂吉は有名な話だ。そのことについて次のページで語られているので興味があればぜひ。
そして、斎藤茂吉は戦後にその戦争賛美を反省したかについては山形新聞に藤沢周平が厳しく責任を問うた内容がある。
興味があればぜひ。
今日8月14日は78年前1945年に土崎に1万発もの爆弾が落とされた土崎空襲の日である。もう一日待てよ。などと言ってられない。
あれから78年。戦争を起こした連中の末裔がまたまた戦争を起こそうとしているとしかボクには見えない。
それが「新しい戦前」という言葉であらわされている。
「美しい日本」などという言葉を使って騙そうとしている人間を見極めたい。
セロリー日記
セロリー。ボクが抱えて無線部屋に行っていたのだが外に出ると車の音に非常に敏感に反応して暴れまくる。ボクのシャツを破るくらいに暴れる。仕方がないので無線部屋に連れてゆくことはできなくなった。
何かトラウマがあるのだろう。おそらくセロリーはそれを一生抱えて生きると思う。そんなヤツです。
本日はこれにて
美しい言葉の中に何かある毒・罠・トラップ引っかかりそう