にしせんぼく短歌大会
朝、5時。
東の空には群雲があるのだが、もうすぐ新月になる28夜の細い月が上がってきた。その弧の上には群雲そして金星が輝く。
東の山際は朝日が照らして赤っぽくなっている。もうすぐ新月だ。
なんとか乗り切りました。
今日は旧西仙北町の大綱交流館で文化祭が開催されている。その一環として短歌大会も開催された。ボクは選者としてアーでもない、コーでもないと話をしてきた。いや、言葉を間違えた。アー、ウーとわけのわからない話をしてきてしまった。と、言うのが正解である。
それでも参加の皆様に助けられて、とても楽しい短歌の時間を過ごすことができた。
集合写真の時に参加の皆様に
「ブログに載せますがエースか?」
と聞いたら
「NO」の人がいなかったので目隠しのない集合写真です。
『今日の短歌 WEB版』
詩はすべて「さみしい」という4文字のバリエーションに過ぎない、けれど
木下龍也『オールアラウンドユー』
木下龍也さんは歌人として最近売り出している。もちろんボクもファンの一人。
この短歌の意味は、「詩」というものはすべて「さみしい」という4文字のバリエーションなんだ。だから詩ってのは色々な「さみしい」状況を詠っているに過ぎない。
そう言われると詩の一首である短歌も何だか「さみしい」気持ちを表現しているのが多いなぁと思う。アッパラパーな気分の時に短歌や詩などは詠わないし読まないのかもしれない。もしかしたら健康な時とか明るい気持ちの時に短歌は似合わないのかなぁと思ったりもする。
だからなのか短歌が好きな人は「歌」の中に「さみしさ」を感じると「いいなぁ」とシンパシーを感じるのかもしれない。
だが、ボクは何だかそれって違うんじゃないの?と、思うことが結構ある。明るく「はっちゃけた」気持ちの歌もいいんじゃないのといつも思っている。
で、今日の短歌の下句で見事にその思いを言い当ててくれている。
「過ぎない、けれど」
つまり、そうなんだけど「今は、これからは、今後は」違うんだよ。と、詠んでいる。詩歌はそこ「さみしさ」から出発して新しい地平が拓けるかもしれないという激励だなぁと感じる。
何だか元気の出る一首だ。
実は今日の歌会で「この話」も、したかったが少し時間が押してしまい伝えきれなかった気がしている。ギターで歌など歌ったから時間が押されてしまったのだ。バカですね。
今日のアマチュア無線
夕方、14MHzでW8Sスウェインズ島とようやく交信できた。
何だかTO8FHマヨット島が出ているようだが全くお目にかかることがない。ペディションの期間に何とか流行りの半纏が着られるかですけれどね。
セロリー日記
確信だけどセロリーはボクに対して自分は王様(女王様)だと思っているようだ。
ボクをシレッと見る態度にそれが現れている。
本日はこれにて
真剣にやるのが一番大事です。そりゃあ仕事じゃないですからね