ふるさと考
横手グリーンスタジアムにて
今日は秋季東北地区高校野球大会準々決勝、秋田修英対一ノ関学院の試合を横手グリーンスタジアムで観戦。修英の勝利を願ってである。
球場に着くと駐車場は満杯。少し離れた秋田ふるさと村の駐車場から歩いて球場へ。
天候に恵まれなかった大会だったが今日は野球日和。
試合結果は、一ノ関学院4-1秋田修英。
残念だったが大健闘だったと思う。
今日のアマチュア無線
7MHzでE51JAN北クック島がF/Hモードで出ている。
ところが周波数は7.092MHzでJTDXの周波数BOXが赤くなっている。こりゃあオフバンドかなぁと思ったがE51JANはどんどん交信相手をさばいている。と、言うわけで呼んでみたら交信完了。
どなたか、これってオフバンドかどうかわかりますでしょうか?
160mはまったく見えず聞こえず。近所の局はE6AMと難なく交信しているに全然見えない。なんてこった。アンテナの張り方が反対側になったので指向性があるのかなぁ。
ま、仕方がないですね。
『今日の短歌 WEB版』
ふるさとの訛なくせし友といてモカ珈琲はかくまでにがし
寺山修司『教育出版 現代文改訂版』より
石川啄木の「ふるさとの訛なつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく」をすぐに思い出す。啄木の歌はふるさとの訛りを懐かしんでいる上野駅に行ってみたという歌。
寺山修司もふるさとの訛りを懐かしみながら、友だちがペラペラと東京弁を話すのを苦々しく聴いている歌。寺山の歌は啄木よりもふるさとへの思いをより深く懐かしんでいるように感じる。
考えてみるとボクもちょっと秋田県外に出た8年間ほどの時、カッコつけて「らしく」喋っていたことがある。しかし、絶対に訛りは無くならないことを知ったときに「オレってバカだよなぁ」と妙な自己嫌悪になったことを思い出す。
秋田魁新報(2023.10.18付)に湯沢出身で山形に住む詩人高啓さんが『このモヤモヤ感はどこから 「隣国」山形からみた古里湯沢と秋田』というコラムを書いている。
ごく簡単に内容を書くと秋田から見た山形観、山形から見た秋田観の考察である。秋田で18年、山形で40年超を過ごしている高さんのふるさとを思う気持ちだ。お互いにバカにしあって何になるの?お互いに良さがあるはずだという内容になると思う。
高さんは最後に次のように書いている。
『さて、この夏、コロナ禍を経て久しぶりに高校時代の友人たちと湯沢駅前の居酒屋で杯を交わした。すると、すぐそこに同窓の某氏の胸像が建てられているという。どうにも居心地が悪い。それに、出世した故郷出奔者に、それまで疎遠だった親戚が名乗り出るような感じで、名状しがたい寂しさがこみあげてくる。
そこで筆者(高さん)は近著『切実なる批評!ーポスト団塊/敗退期の精神ー(高安書房刊2023年)』の奥付の著者略歴から「湯沢高校卒業」の記述を削除することにしたのである』
お見事!!!
いいねぇ湯沢高校卒業生の精神は。まったくその通り。ふるさとを捨てた人。真にふるさとを思っているのか。ふるさととは何かを問うている。
もちろんボクは『切実なる批評!ーポスト団塊/敗退期の精神ー(高安書房刊2023年)』を発注したのであります。
セロリー日記
セロリーは今日一日ほとんどを留守番だった。
帰ってきたら手を洗おうと思って流しの所にゆくと、流しの縁に上がってくる。
寂しかったんだろうなぁ。
本日はこれにて
あの頃はふるさと訛りは消えるぞと思っていたが傲慢でした