旧友再会フォーエバー


昨夜は大曲市内の某焼肉店で前の職場の同僚たちと再会をした。
現況と楽しいことを語り尽くして夜はふけていった。

新しい場所でのがんばりが皆の顔を明るくしている。何よりも変なプレッシャーがなくのびのびと仕事ができるのがどれだけ大切なことかを再確認をした。

吉田拓郎の歌ではありませんが旧友再会フォーエバーです。


今日は孫娘のとわに会いに能代にいます。

そんな訳で生存証明です。

クニマスシンポジウム


晴れと雨

 田沢湖町に向かった。詳しくは下に書くのだが往復およそ120辧6鮓ながら(もちろん前を向いてしっかり運転はしています)運転していると様々な入道雲に会えた。いいなぁ、と思いながら雄大な雲を見上げながらハンドルを回していた。
 角館にかかった時、西木村方面にかかっている雲から雨が「漏れている」。フーン、自分がいる場所は晴れているが向こうは結構土砂降りらしいなぁ。そんなことを思いながら車を路肩に停めて写真を撮した。
 雲の下でブルーの濃い部分が雨の降っているエリアだ。入道雲も撮してみた。ところが下手くそで雄大な写真にならない。子入道になってしまうのである。残念。


クニマスは生きている

 田沢湖に向かったのは秋田朝日放送主催の「クニマスシンポジウム」があったからだ。ブログに書いた記憶があるのだが、昨年12月山梨県西湖で70年前に絶滅したと思われていたクニマスが再発見された。
 絶滅を恐れた人たちが西湖を含む何カ所かに受精卵などを移植していたのが脈々と生きていたのである。
 クニマスの発見をした京大教授の中坊さんたちがシンポジウムをおこなうと言うことで入場券の応募をしたら当選。早速、言ったのである。

 中坊さんの講演でボクとしては三つのことがわかった。

 その1。クニマスの産卵は深い場所と言うよりも水温の低さ(4℃)が大切であること。西湖は湖底に湧水があり水温が低いことが生存の決め手になったという。逆に言えば水脈が断たれたらクニマスは危ないということになる。
 その2。クニマスはヒメマスの「亜種」ではなく、独立した「種」である。つまり、ヒメマスとクニマスの交雑はおきない。なるほどなぁ。
 その3。クニマスの魚体は黒いのが特徴と言われている。しかし、発見されていないのだが銀色に輝く魚体の時期があるはずだ。もしかしたらクニマスの魚体が銀色の時に釣られたりしてヒメマスと間違って食されている可能性があるかもしれない。魚体が黒だけであるのは思い込みかもしれない。

 もっと深い内容を話してくれたのだがメモもとらなかったので印象に残った部分である。
 食糧増産、電気を作るなどの「国策」によって田沢湖は死の湖になった。そのことは絶対に記憶にとどめておかなければならない。「国策」によって何ごとも進められてしまう実態。これは「原発」にもつながることだ。
 アレッ、クニマスが原発に移ってしまった。夕方からの予定があり豪華メンバーの出るパネルディスカッションは聴かないで帰ってきた。こちらは8月26日(大曲の花火の前日)にちAABで放映される番組を見ることにしよう。

 と、言うわけで帰りには『あきたの地魚・旬の魚』を1冊購入してきた。さすがにこの本にクニマスは掲載されていない。クニマスの里帰りは何時になるのか。無理なのか・・・・。玄関に飾られていた発見に一役買った「さかなくん」の書いた幟を1枚撮影してきた。

    国策で七〇年も絶滅と言われ続けたクニマス元気


本日は夕方から昔の仲間たちとの一杯飲み。早めのブログアップです。

選手の考えと監督の考え


雨雲の行方。

 このところ雲の行方と天気図の雲の写真がおもしろい。と、言うわけ昨日に続いて第2弾。雨雲の動きと現実の姿です。


原発許せまじ

 秋田県にもジワリと放射性物質の影響が出てきている。稲ワラ牛のセシウム問題。腐葉土セシウムの問題。
 この腐葉土セシウムについては昨朝の魁新報を見て「ゲッ!」と声を上げてしまった。秋田県内で五校が栃木県産のセシウム検出の腐葉土を使っていたという報道だった。我が職場がこれら5校に入っていなかった。ところが栃木県産の腐葉土を購入したと報告された職場の1つになっていたのである。
 説明によると栃木県の業者の販売だったが腐葉土そのものは別の県で作られていて幸いセシウムは入っていなかったとのことだった。だが、どこでも危険性はある。
 この新聞記事を見たときにボクは「仕事さエギデグネェ」と瞬間的に思ってしまった。この歳になって命が惜しいのか。と、問われたら「はい、そうです」と答えます。それだけ放射性物質は見えないだけ怖いのである。
 そうしたら今朝の朝日新聞には秋田県内でのセシウム腐葉土問題で新たに5校増えたとのことが掲載されていた。
 新聞によると対策は安全性が確認されるまで使用していた場所の1メートル以内に近づかないとの指示らしい。ボクだったらやっぱり仕事にゆくことを休みたいなぁ。臆病ですかねぇ。

 放射性物質がジワジワと日本全体を覆っているにもかかわらず、財界と呼ばれる人たちがジワジワと原発の推進にうごめいているのも垣間見える。それも秘密裏に。脅しを交えて。節電をしましょう。たとえば電気が足りなくなる。企業は海外に出てゆかなければ成り立たない。猛暑にはたえられない。などなど・・・。

 日本は好きです。秋田県も好きです。南外も好きです。だから,ボクは今この場所から逃げるわけにはいきません。
 ボクは年齢的にはそれほど長くは生きられません。しかし、子どもたち。その後に続く世代が心配なのである。その辺のことに気づけない政治家と財界がおっかないのですねぇ。要するに自分たちの金儲けのことしか考えていないように見えてしまうのだ。

   なんとなく曖昧模糊にものごとが進んでしまう放射能さえ


指導者の姿

 今朝(2011.7.29付)の日刊スポーツ紙の小さなコラム『ホットライン』に東京デスクの飯島さんが『「木内野球」を継ぐものたち・・・』を書いている。
 ここには茨城常総学院野球部の80歳木内監督の引退に関して興味深いことが書かれていた。

 常総OBの仁志敏久氏が木内監督の試合を観戦していた時に、木内監督の采配をピタリピタリと言い当てたとのこと。記者は木内監督の野球を心底理解しているんだ思ったという。
 記者は木内マジックという代名詞を持つ監督が今大会はあまり動かずに準決勝で敗れたことを意外に思ったという。
 このことを仁志氏は否定したという。仁志氏が記者に言った内容が深いです。

『監督が何かしてくれるという気持ちではダメ。監督の采配だけで勝っても、野球はそういうものじゃない』

 プレーをするのは選手である。このあたりの指導はとても難しいものがある。選手を自分の思うままに動かして勝つこともあるだろう。しかし、それだけでは最後まで勝ちきれないのだろう。
 選手が考えてプレーできるように指導することの難しさがここにある。

 これからはヒガミですが・・・。木内さんのように「エリート選手」だけを集めて指導するからこそできることではないかとボクは考えてしまう。現実は95%以上の高校チームが一からの出発をしている。自分で考えてプレーできる選手を育成できないうちに高校野球の2年半は終わってしまう。

 それはともかくとして仁志氏の言う言葉も真理である。


これにて本日はおしまいです。文章いつにも増してハチャメチャです。ちょっと呑んできました。ごめんなさい

真の民主主義とは?


午前8時の空模様

 ネットでほぼリアルタイムで雲の様子を見ながら天気を予測することができる。午前8時頃の秋田県上空の雲の様子である。
 県南部上空は大きな雲がかかっていない。真ん中の写真が南外村湯ノ又から大向方向を見た風景である。東方向の景色だ。うっすらと日が当たっているのがわかる。
 そして、下の写真が雄物川の土手を自転車で走っている高校生。カメラのレンズは東側を見てシャッターを押している。何となく雲が薄くなっています。
 しかし、秋田県内ではあちこちでゲリラ豪雨が暴れ回った。

    ワイシャツに風たっぷりとはらませて走る自転車君に嫉妬を


隠蔽体質

 今朝(2011.7.28付)の朝日新聞に作家の高橋源一郎氏が『情報公開と対話』と題する記事を書いていた。まぁ、ボクのような読解力のない人間が読んでいるので内容の把握は的外れかもしれない。しかし、記事の内容はとても納得できる部分が多かった。

 高橋氏が記事の最初にとりあげたのは映画「100000万年後の安全」についてである。この映画はフィンランドの地下500メートルに建設されている放射性廃棄物の最終処分場についてのドキュメンタリーとのこと。
映画監督は建設に関する人々にインタビューする。本当に安全なのか。未来の人々にどう警告するつもりかと。この鋭い質問に,関係者たちは絶句し考え込み、彼らは最後に「自分のことば」で答えようとすると書いている。

 この内容を読んだ時に誰が書いた内容か忘れたがある新聞記事を思いだした。それは10万年後それは放射性同位体の半減期でありそれまで原子の危険性は続くという内容だった。
10万年後と言えば人間の一世代を仮りに長く見積もって100歳まで生きるとすれば1000代の代替わりがある。これは最小で計算してだ。
この気の遠くなる時間を「放射性廃棄物は危険です」と代々語り続けて行くことができるだろうか。と、いう問いだった。結果として原発の危険性は宗教として人間の脳に刷り込んで代々伝えてゆくしかない。こんな内容だった。
 妙に納得した。「危険だよ」という宗教ならば伝わる可能性はある。何だかタブーの場所に近づかない映画『猿の惑星』のような感じだ。現代の人間に突きつけられた大きな問題である。

 高橋氏は国策として原発推進をするフランスを取り上げている。
フランス国家代表は「100%の透明性ですべてを公表せよ。民主主義国家でなければ、いかなる国も原子力エネルギーを使うべきではない。私からみれば、民主主義は原子力エネルギーを使う必須条件です。原子力エネルギーは透明性を意味するからで、透明性がなければ民主主義国家ではありません」と発言していると言う。

 と、言うことはすべてに隠蔽体質の日本は民主主義国家ではなく,当然原子力エネルギーも使う権利も能力もないことになる。と高橋氏は書き、スローなどんなことでも話し合えるオープンな民主主義になれればいいなぁと話は進んでゆきます。

 先日、注文した『別冊宝島 日本を脅かす!原発の深い闇』が届いていた。この本の冒頭には「放射能の実態が隠されるカラクリ!」がある。3.11以降、隠されたことがいかに多いのかを知らされる。例えば「使用済み燃料プールはどこに消えたのか」すでに水素爆発で周辺に飛散してしまっているのではないか。例えば3.11後にチラッと出た「中性子」という言葉がまったく使われなくなってしまったこと。例えばホットスポットとよばれる拡散される場所を公開しなかったこと。などなどとにかく隠蔽工作がおこなわれている。と告発している。恐い話だ。

 ボクは日本は民主主義だなんて思っていなかったので妙に納得したのである。じゃあ日本て何だろうなぁと考えると前にも書いたが「行き当たりぱったり」「あたって砕けろ」「後は野となれ山となれ」主義だと思うのだ。
 民主党の馬淵なんとかと言う人が次期総理に意欲を見せているらしい。一昨日、彼はテレビ朝日のニュースステーションに登場した。ボクはその時に言った言葉にものすごく憤りを感じた。
 彼は原子力エネルギーを自然エネルギーに徐々に移行してゆく。しかし、50年や100年ではない。もっと長いスパンでやるべきだ。今、必要なのは現在稼働している原発の安全性を確かめながら確実に運転させてゆくことだ。と、言ったと思う。50年後や100年後の次代の人たちに借金を回そうということを言っているに等しい。やはり「後は野となれ山となれ」主義だなぁと感じてダメだこりゃあと腹が立ったのである。

 腹立ち紛れに書いているうちに字数がオーバーになってしまいました。この続きは次回にでも書きます。どうなる日本は。主権者はボクたち国民なんだけれど・・・・。
そうそう、今日から北東北インターハイがスタート。若者たちよがんばれ。これにて疲れ気味のブログは終了です。

夢であいましょう


暗雲たちこめて

 昨夜から待望の雨が少し降った。降れば降ったでわがままな人間のボクは湿っぽいとか何とか言ってしまう。それでも乾燥状態が少し解消されたのはホッとする。放射性物質は入っていないことを祈りたい。
 写真は南外村湯ノ又から湯神台方面を見た景色である。何だか暗い写真で申し訳ありません。


草創期の熱気が伝わります

 昨日、ブログに「夢であいましょう」についてコメントをPLさんからいただいた。テレビの草創期のことを思いだしておられた。ボクもだいぶ前の「夢であいましょう」のCDブックを買っていた。ガラクタの入っている本棚を探したら何と言うことでしょう。発見できまたのです。
 奥付を見たら主婦の友社が平成2年5月8日に発行している。主婦の友社って今でもあるんだろうか。それはともかくとして、この中に永六輔氏が「夢であいましょう」の放送を『学校のような雰囲気の中でみんな無我夢中だったあのころ』の談話を載せている。少しダイジェストしたい。

『「夢であいましょう」は従来日本人が楽しんできたあるゆり芸能の要素を取り入れるバラエティー・ショーをテレビという未知の世界で作ってみたいと思ったわけです。しかし、テレビがどうなるのかなんてまだまだ雲をつかむような話だったのも事実です。(中略)いつもそうですが、当時もテレビ・カメラをはじめ、スタジオ全般の技術的な部分が、いつも先行していましたね。現実に人間が頭の中で考えるよりも先にハードのほうがどんどん前へ進んでしまう。出演者やスタッフは技術が進んでいくのとは全く別の次元でわいわいやってるのが現状なんですね。
 テレビの初期の時代は、それがもっと顕著だったわけです。つまり、カメラをこうしたいと言っても「そうはいきません」。ライトをこうしたいと言っても「そうはいきません」というわけで、こちらは技術陣に従いながらやらなきゃいけない状況でしたからね。しかも生放送でしたから。
 もっとはっきり言ったら,当時の制作者も出演者も、だれ一人としてテレビがどうして映るのかを知っている人いなかったと思います。そんな状況で始まっちゃっていますから、当時はとにかく機械とどう闘っていくか・・・・闘うという言葉が悪ければ、スタジオの中にある機械をどう使いこなすか、ということで精一杯でした。だからその先にどういうものを作ろうとかじゃなくて、いま現実にスタジオの中で、カメラがそこまでしか動かない、ライトがこれしかない、セットが足りない。衣装がえの時間が云々という現場の処理に終われていました』

 時代の先端技術のテレビ現場の空気が伝わってくるような感じがする。その現場に大先輩のPLさんはテレビカメラと格闘していたんだなぁと感慨を新たにした。

 そして、このCDブックには「夢であいましょう」で放送されて、その後ヒットした曲がおさめられている。PLさんが懐かしいとコメントに書いてくださっている北島三郎の「帰ろかな」も入っていた。

 曲名をピックアップ。

  夢であいましょう(東京混声合唱団)
  誰も知らない(高英男)
  上を向いて歩こう(坂本九)
  ブルージン・ブルース(弘田三枝子)
  青空を抱きしめよう(森山加代子)
  風に歌おう(水原弘)
  遠くに行きたい(ジェリー藤尾)
  いつもの小道で(田辺靖雄・梓みちよ)
  おさななじみ(デューク・エイセス)
  こんにちは赤ちゃん(梓みちよ)
  ウエディング・ドレス(九重佑三子)
  娘よ(増田喜頓)
  帰ろかな(北島三郎)
  モンキー・ボン・ダンス(城山吉之助)
  夢であいましょう(坂本スミ子)

 ウーム、ほとんど知っているぞ。それだけ番組を見ていたことになるんだろうなぁ。

 ところで「上を向いて歩こう」を初めて聴いたのが8月頃だったと思っていたのはどうも10月だったようだ。通常、今月の歌は1ヶ月4回放映されるのだが「上を向いて歩こう」は異例の2ヶ月オンエアーだったとこの本を読んで知った。

 と、言うことはボクが先輩の家に泊まったのは少し寒くなってからのことだ。何があったんだろう。また謎が出てきた。もっとも半世紀も前のことなんか思い出せません。歌は思い出すが記憶は無理です。


今日は県内のあちこちでゲリラ豪雨の様子だった。我が職場のグラウンドも二日連続水浸しのこと。本日のブログはこれにて終了です。

   乾く日々大雨警報解除されちょっと安心少し残念

「仇も恨も是まで是まで」ウーム・・


夕立が降ってくれたら

 盛岡に帰省し今日栃木まで帰る友人から高速道路は雷雨がつよくて休憩中ですとメールがあった。
 そのメールがあってすぐに職場の付近でも激しい夕立になった。野球部のグラウンドもあっと言う間に水浸しになってしまったとのことだった。
 しかし、夕方我が家の付近まで帰ってきたらまったく降っていない。本当に地域的な夕立である。だから南外付近では水不足気味で雨が欲しい状態だろう。近所を流れる楢岡川もチョロチョロとしか流れなくなった。

 それでも稲作は冷たい春先の天気で生育の心配があったらしいが,最近の暑さで生育は持ち直したと報じている。少し稲の色が変わってきた。

 夕方、帰宅途中で見えた入道雲を1枚。

    入道は恐竜巨獣ドラえもんその頂上に雷雨抱えて


ボクは人を許せるか

 先日の映画「大鹿村騒動記」のパンフレットを600円也で買った。間違いなく買ったはずだ。ところが身のまわりをキョロキョロと見回したが発見できない。確かに買ったはずなのに・・・。
 それを本日発見。車の座席の間に落ちていた。無事見つかってよかったことにしておこう。また、ぼけてはいないらしい。いや、ぼているかも。

 実はこの冊子に映画のテーマとでも言える言葉が裏表紙に一言印刷されているのだ。これが欲しかったし見たかったのです。それは原田芳雄の演じる善さんが大鹿村歌舞伎で演じる景清役の台詞の一言。それは「仇も恨も是まで是まで」である。

 大親友と嫁さんに駆け落ちされた善さん。18年経ってから突然2人は村に帰ってきた。嫁さんはアルツハイマー病のようになって・・・・。映画はそこからドタバタが始まる。

 300年続く大鹿村歌舞伎。色々なトラブルでその開催ができるかどうかを一つの縦糸にして人間模様が描かれる。 結局、原田芳雄演じる善さんは親友と奥さんを許したんだろうなぁ。

 そこに大鹿村歌舞伎の台詞「仇も恨も是まで是まで」である。ウーム。確かにそうかもしれないなぁ。何でも許せるかもしれないなぁ。でも、執念深いボクは許せないことがあるよなぁと、「仇も恨も是まで是まで」なんて無理だよなぁ。
 誰とは書きませんが絶対に許せない「人」がいるのですから・・・。ウーム。まだまだ人間の器が小さいかもしれない?


依頼されているビデオテープのDVD化を始めている。やはり、ビデオテープのデッキがなくなってきている時。「これだけは」と思える永久保存版は早めにデジタル化することも必要な時期かもしれません。と、言うわけで本日のブログはこれにて終わりです。

上を向いて歩こう


暑い日が帰ってきました

 数日、涼しい日々が続いていた。涼しさを感じるのがトイレに入った時。節電で便座の保温装置を切っている。暑い日に座るとヒンヤリしてとても気持ちがいい。ところが涼しい日々になると「ヒャーッ」とついつい腰を浮かしてしまうのです。

 昨日から暑い日々が帰ってきた。雲も入道雲になろうとする気配を感じさせてくれる。


とうとう砂嵐に

 やはり物好きっているものですね。今朝の魁新報のコラム『北斗星』欄に地デジ化された瞬間のことコラムニストがを書いていた。

『アナログ放送がきのう正午で終了した。歴史的な瞬間と言うには大げさだが、テレビをアナログに切り替えてその時を待った。正午「長い間ご覧いただきありがとうございました」という大文字が画面を埋めた』

同じことをする人は多かったんだろうなぁ。50年以上と言えばやはり感慨深いものがある。

 ボクは昨夜日付の変わる時、アナログ電波が止まる瞬間、つまり砂嵐が出る瞬間を見たいと思い日本酒を一杯飲みながら待機した。
 その「時」を動画で撮っておこうと思い準備したのだが間に合わなかった。ブルーの画面から突然砂嵐画面になった。アリャー、間に合わない。それでおしまい。とうとう酔いつぶれてしまった。
 昨日も書いたのだが、地デジ化は余計なお世話のような気がするのだが・・・。まぁ、仕方がないでしょう。


いい歌です

 高校1年生の時。部活動の先輩の家に泊まって大曲の花火を見た。その夜にテレビで放送されていた「夢で会いましょう」の番組で初めて坂本九の歌う「上を向いて歩こう」を聴いた。と、思う。

 いい歌だなぁ、もう一度聴きたいなぁと思ったのだが番組が放送されるまで一週間待つしかない。我が父親はけっこう厳しくて夜遅く(「夢で会いましょう」は午後10時前後に放映されていた)のテレビはあまり見せてくれなかった。
 当時、テレビは一家に一台の貴重品。何とか頼み込んで「こんただバガクセ、テレビ見て・・」という声を聞きながら見せてもらった。

 「上を向いて歩こう」は大ヒット曲になった。アメリカのビルボード誌でも1位を獲得するまでになった。画期的なことである。
 先日、この曲の特集をNHKで放映していた。大ヒット曲になり渡米した坂本九がインタビューで応える場面を映し出した。

「日本で人気のあるお話を一つやってください」
「エーと。となりの家に垣根ができたんだってねぇ。ヘー」

と、いう小咄を披露していたのだがアメリカ人には全く伝わらない様子だった。こんなに面白い噺はないのに・・・。

 今、「上を向いて歩こう」が取り上げられているのは大震災の応援歌になっているからとのこと。歌詞も歌の調子も「よし、がんばるべ」となるのだろう。

 何年か前に大洪水がありバスの屋根に取り残された多くの人が気持ちを一つにするために「上を向いて歩こう」を皆で歌ったことは有名な話である。これを立川志の輔は次のように落語のマクラで話している。
「バスの上で皆で歌える誰でも知っている歌が歌える年代の人たちはいいですね。今の人たちはこんな状況になったら何を歌うんでしょうねぇ」
確かに若者たちの音楽や歌の好みは多様化しているので皆で一緒に歌える歌は少ないのかもしれない。

 先日、「上を向いて歩こう」のCDが発売された。早速、ポチッとして入手。ジャケットは最初に発売された時の写真である。あらためて聴いてみると今は亡き坂本九の声が懐かしい。つくづくいい歌だなぁと思った。

 話変わって朝日新聞の短歌欄に次のような歌が掲載された。
   「上を向いて歩こう」は聴きたくないと言うひとりぼっちとなれる被災者
                          和泉市 長尾 幹也さん
 この気持ちもすごくよくわかります。名曲は勇気とそしていろいろな想いを人の心に映してゆく。

    50年心捉えた歌がある「上を向いて歩こう」今も好き

 この歌にはまだまだ想い出がある。忌野清志郎がRCで「上を向いて歩こう」をカバーした曲を結婚式の入場に使った素敵な男もいる。ボクはALTと一緒に歌った記憶もある。

 それぞれの上を向いて歩こうを思い出す。それにしても震災の対応は4ヶ月を過ぎても遅々として進まない。



これにて本日のブログは終了です。

歴史的な日


アナログ放送終了

 朝からテレビは妙にテンションが高い。アナログ放送が終わる日だからだ。10年間かけた国策でデジタル化するという世にも希なる愚策である。なんでアナログではだめなのか全然理解できない。と、文句を言いながらボクはデジタルチューナーでテレビを見ているのですが・・・。
 しかし少々、言い訳を。山間部である我が家ではテレビの映りを良くすることは永遠の課題だった。だから自分で素子数の多い(魚の骨にたとえれば骨の多い)UHFのアンテナを購入して設置したり、電波の増幅器をつけたりしていた。自分の都合で良い画像を得られる方向に向かっていたのだ。
 だが、今回の施策は一律に良い画像を見ることができます。だから一斉にデジタル化します。というような押しつけであることは間違いない。まぁ、おそらく政治と業界が一帯になって「金儲け」に走ったと考えてもいいだろうと、ボクは考えている。だから、ボクの地デジの方向はそれなりに理由があるのです。エッわかりません??

 それはともかくとして昨夜の落語会で柳家喬太郎師匠がマクラで話した。

「折角ですから記念すべき時間に立ち会いたいですね。テレビ局は大晦日のように5,4,3,2,1,0とカウントダウンでもするのでしょうか」

喬太郎師匠は半分以上この地デジ化のことを呆れて話していたと感じた。

 と、言うわけで歴史的な日だ。アナログ受像機で今朝の画像を見たら写真のようになっている。NHKでは正午前に女性の鈴木アナウンサーが最後のあいさつをした。そして、それ以降はブルーバックの画面になった。他のチャンネルを見ても同じである。もしも、この画面を何となく見たらパニックになるだろうなぁと率直に感じた。そして、少し涙がにじんできた。と、言うのは少しウソ。
 そして、完全に砂嵐状態になるのは25日に切り替わる深夜らしい。

 テレビの想い出は半世紀を超える。中二の時に初めて我が家にテレビが来た。NHKだけだった。それも時間制限で今のように終日テレビは見ることができなかった。
 それから50年以上経過している。でもテレビとはあまりつきあいが深くない。常にテレビをつけているわけではない。もっともテレビがなければ寂しいんですけれど・・・・。


映画と落語

 映画「大鹿村騒動記」良かったなぁ。この映画の良さは「村の伝統」の大切さ。人のつながり。そして「君は人を許せるか」とつきつけられること。などなど人は生きていることがとても素敵だなぁってことだ。
 座席に座っている周りを見ると何だか年寄りが多い感じがした。だが、この映画は若者に観てもらいたいなぁと思った。結構、笑えます。そして、しみじみします。と、ボクはお薦めです。今ならルミエール秋田で特別料金1000円でどなたも入場できる。

    古里は心を癒す効果あり川のにおいと田んぼの色と

 そして、柳家喬太郎師匠の落語会。今回で7回目の落語会になるそうだ。最初の会に行ってから今回で4回か5回目になる。会場はジョイナスだったが今回は文化会館小ホール。少し空席があったかなぁ。

 噺は「まんじゅうこわい」「竈(へっつい)幽霊」そして「抜け雀」の三席。新作落語はなく古典落語に属する噺を喬太郎師匠独自の視点で演じた。
 「抜け雀」のオチで子どもが親孝行できないことを嘆く「アー、私は親を駕籠かき(籠描き)にしてしまった」が印象深い。まぁ、だいたい子どもってそうやって親を踏み台にしているんでしょうけれど・・・。ただし、なかなか親を乗り越えられません。と、思いました。やはり落語はいいですねぇ。


これから孫の顔を見に出発しますので早めのブログアップです。
 

映画と落語と


まずは本日の高校野球の結果を
決勝戦
能代商6ー3秋田中央
2年連続甲子園出場。たいしたもんです。

今夏、ボクの高校野球は終わったので本日は映画と落語の一日です。
映画は先日亡くなった原田芳雄の『大鹿村騒動記』。そして、落語は久しぶりに柳家喬太郎を聞きます。
映画は観てきました。感想は一言。人は生きていると様々なことがあるぞ。だから生きるってことは楽しいことだってことです。
最後のエンドロールで流れる忌野清志郎の『太陽の当たる場所』がいい。さすがです。そして『オラ東京さエグダ』や『木綿のハンカチーフ』など懐かしい歌を口ずさんでいる原田芳雄が素敵だ。
と、言うわけで今日は生存証明のみです。

一本の刈り残されしタチアオイ凜として良しそのたたずまい

望雲の情


大反省会

 いやーっ楽しかった。横手の「平利」という店で一学期の間一緒に仕事した仲間たちの反省会があった。これまでの色々なできごとを話しながら冷やの日本酒をグイッと。

 そして、例の「イタイワニー」が大活躍。新しく購入したワニーは貫禄がない。すぐにガシャッと口を閉めてしまうのだ。それでも絶対に語れない「あんなことや、こんなこと」を引き出すワニ-の技は凄腕です。
 と、言うわけで本日は二日酔い。まったく・・・・。

 写真に写っている皆にはブログ掲載を許可してもらいました。とてもいい笑顔です。さすが「大好きーー」です。


原発は戦争の一種

 以前、何かの本で読んだのであるが戦争を一言で表現すると「戦争は愛する者たちとの別れである」という言葉に衝撃を受けたことがある。為政者がおこなう「想定」された別離である。 悲劇である。

 今、大津波で2万人を超える多くの人たちに否応なく「別れ」があった。これは戦争ではないとボクは思う。大震災である。そのほとんどの悲しみは防ぎようがなかったかもしれない。それこそ「想定外」である。
 しかし、原発の事故は「戦争」だとボクは考える。なぜか?それは自分の住む土地との別れ。肉親との離別。などなどが人為的に起こされているからだ。この事故が起きることはすべて「想定内」だったと言ってもよい。避けることができたのである。

 フクシマ(あえてこう書きます)に住んでおられるアマチュア無線の大先輩のブログでお孫さんたちが京都に避難されたという内容を拝見した。
 目に入れても痛くないメンコイ4人のお孫さんたちが出発する写真が掲載されているのだ。この子たちが原発事故が収束する目途のまったく立たない福島に帰れるのはいつだろうか。目の前が真っ暗になってしまう。

2011.7.15付の朝日新聞『天声人語』に次の文があった。
『近刊の写真集「雲」(ネット武蔵野)を繰りながら、東京の空もなかなかだと思った。都下に住む瀬戸豊彦さんが撮りだめた空に、当日の天気図が添えてある。公園の花畑や高層ビル群の上、日替わりのカンバスで、雲たちは千変万化を競う▼天体が不易の象徴ならば、雲は流転の代名詞だ。同じ形は二つとない。「これほどドラマチックなものは自然界にありません。よい風景には必ず、よい雲がある」と瀬戸さんは語る。〈夏空へ雲のらくがき奔放に〉富安風生(ふうせい)▼遠くの親を思う心を望雲(ぼううん)の情という。津波や放射能に追われ、全国に散った子どもたちを思う。頭上の雲に探すのは、故郷で頑張る父さんの背中だろうか、風になった母さんの笑顔だろうか。いくつもの意味で、初めての夏になる。』
 望雲の情。遠くの親を思う心。遠くの孫たちを思う心。遠くに住む知人たちを心配する心。多くの心が散り散りバラバラになってゆく。そんな状態でも原発を推進しようとする人たちが日本を牛耳ろうとしている。

 こうなれば菅直人首相に居直ってもらうのが一番かもしれない。今、彼は辞める必要はない。朝日新聞の世論調査によれば菅直人の支持率は15%程度だが脱原発支持は75%を超えると言う。やはり、こうなれば菅直人首相の粘りを期待するしかない。そして、脱原発を、郵政民営化のような単純な争点にして伝家の宝刀「解散権」を抜くとどうなるんだろうなぁ。と、想像する。

 いずれにしても愛する人たちとの別れがどんどん加速している原発。もっと考えなければ。今日、『原発の深い闇 (別冊宝島)』と『雲』をそれぞれポチッたのである。


そよ風のコンサート

 一昨日のブログに書いた本田武久さんが自身のブログにその時のコンサートについて感想を書いてくださっている。ぜひとも読んでくださればありがたいです。

http://blue.ap.teacup.com/takehero/

一流のテノール歌手が小さな高校の体育館で歌う。それも、体育館は夏の風が時々カーテンをボワーンと巻きこみながら吹き抜け、周りではアブラゼミが鳴いている。
本来ならば防音設備の整ったホール等で演奏するのだろうが本田さんは「その場所で大丈夫です」と言ってくれたとのこと。

ボクはその時に「とても良い風が吹いている素敵なコンサートだなぁ」と感じていた。

    テノールの歌の流れる体育館ふわり温か風と涙は


本日の高校野球

 準決勝
  能代商  6- 3 金足農
  秋田中央 6- 5 秋田商

これで決勝戦はどちらもノーシード校の対戦となった。シード校制度について考え直す時期かもしれないと思う。強化策は初戦からガチンコ勝負が正しい方向性の一つだと思うのだが・・・。
と、言うわけで本日のブログはこれにて終了です。
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